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● 160
《弾け飛ぶ心の“たが”そこにある無我の境地》
《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に
 神に捧げるのだ 全力を》

「無我の境地」はテニプリの文脈では技の名前だけど、この曲のモチーフになった試合では使われていない…
考えられることは色々あるけど、とりあえず一つ(やや前回の内容から続いている)


***


無我の境地はもともと仏教の、禅の語彙。禅の修行においては、坐禅を通じて自我への執着を手放し、無我の境地に至ることが目指される。
4歳から続く坐禅の修行。《弾け飛ぶ心の“たが”そこにある無我の境地》は、その一つの到達にも見える。

しかしここに逆説がある。禅における無我は、放下著によって——すなわち自我への執着を自ら手放すという自己制御によって到達する境地であり、それは能動的な修行の果てにある能動的な放下。しかしこの歌詞の中で描かれているのは、《弾け飛ぶ心の“たが”》=自己制御の崩壊によって到達した無我であり、能動的な自己制御による達成とは正反対の、受動的な体験。砕かれることによる無我。

そして《神に捧げるのだ 全力を》の《神》は、キリスト教的なコノテーションの神である。(これは原作に裏付けがあるわけだが、この曲自身の教会音楽的なサウンドからも感得できるのが面白い)

一方で禅は本質的に無神論的であり、人格神との関係を前提としない体系。「神に捧げる」はキリスト教的な語彙であり、禅の語彙ではない。禅には捧げる相手がいない。しかしこの歌詞では捧げる相手としての《神》がいる。禅の修行者として鍛え上げた自我を、キリスト教的な構造で神に捧げている。

仏教的な自我の消滅が、キリスト教的な神への全的な献身と融合している。禅の修行者として自力の道を歩んでいたはずが、《神》に出会うことで、超越的な他者に自己を捧げるという、自分の体系にはない他力の道に引き込まれた……とも読める。禅の修行者の鎧を着ながら、キリスト教的な神の子への献身を通じて、禅が目指す境地に到達する。二つの宗教的体系が一人の人間の中で交差している。


また、前回書いたような崩壊と明け渡しと解放の三位一体——自分のすべてを捧げ、自我を明け渡し、完全に受動的になることによって到達する恍惚——は、キリスト教神秘主義のエクスタシーの経験そのもの。

(これはテニプリの文脈では別キャラの語彙だが…)エクスタシーの語源はギリシャ語のekstasis=「自分の外に出る」こと、自我の外に出ること。これは禅の無我とも響き合うが、決定的に異なるのは、エクスタシーでは「出た先」に神がいるということ。禅の無我には出た先に誰もいない。この歌詞の記述では、自我の外に出た先に《神》が存在しており、キリスト教のエクスタシーの構造と一致する。

また歴史的に、宗教的なエクスタシーが性的なエクスタシーと不可分であったことは周知の通り。神の圧倒的な力に触れられ、自我が砕かれ、自己の外に出て、神と一つになる。その経験がエロティックなものと不可分である。


そしてキリスト教において“神の子”とは、神でありながら人間として受肉した存在——超越性と肉体性を同時に持つ存在。神の子は自ら苦しみを受け、十字架上で死ぬ。全能の支配者ではなく、受難する者でもある。

とすると《神に捧げるのだ 全力を》という行為は、全能の神への供物というよりも、受難する神の子への捧げ物という性格を帯びる。万能の超越者ではなく、傷つきうるvulnerableな存在への贈り物。

《あの時 たった一度だけ
 頬に覚えた熱い痛み 生きている証》

……傷つく神に全力を捧げるという行為の中にある親密さは、全能の神への畏怖とは質が異なる。神が全能ではないことを知りながら、それでも神として捧げる。この「知りながら」の中に、畏怖ではない感情がある。脆弱な者に自分のすべてを差し出すという行為は、宗教的な帰依であると同時に、限りなくエロティックな献身になりうる。

なぜなら全能の神に捧げるとき、その行為の本質は服従であり、神は傷つかず、揺るがず、捧げ物を必要としない。捧げる側の行為は一方的であり、神はそれを受け取るかもしれないし受け取らないかもしれないが、いずれにせよ神の存在は捧げ物によって何も変わらない。そこにあるのは絶対的な非対称性であり、捧げる者は永遠に神の前にひざまずく者でしかない。

しかし傷つく神に捧げるとき、構造が根本的に変わる。捧げ物が相手に届く。届くだけでなく、相手を動かす。

《不意にボールが 額かすめて世界を切り裂いた
 底の知れない 何かが黒色のオーラを纏い覚醒する
 絶望さえ 君は打ち砕いたのかい?
 恐怖を抱いた 自分にももう余裕はない》

相手に恐怖を抱かせ、捧げ物が相手を変える。これは全能の神に対しては起こりえないこと。

自分の全力が相手に届き、相手を動かし、相手の内部に入っていく。ここに親密さが生まれる。それは相手が自分に対して開かれているということであり、自分の力が相手の内部に触れているということ。全能の神は閉じており、何者も神の内部には触れられない。しかし傷つく神は開かれている。

《不意にボールが 額かすめて世界を切り裂いた》——ボールが額をかすめるという場面は、文字通り相手の身体の表面に触れている。しかしそれだけでなく、自分の全力そのものが相手の内面に侵入し、脅かし、その自己制御を揺るがしている。捧げ物が相手の身体の境界を越えて内部に入っていく。

つまり捧げ物は表面ではなく、内面にあるものに届いている。全能の神には表面しかない、あるいは「表面の下」が存在しない。しかし傷つく神には表面の下がある。その下に触れるということが、親密さの最も深い形である。相手の最も守られた場所、相手自身さえ知らないかもしれない場所に、自分の力が届く。

これは献身であると同時に侵犯であり、崇拝であると同時に相手を壊しかねない暴力である。傷つく神に全力を捧げるとき、その全力は相手を本当に損なう可能性もある。打球が《世界を切り裂いた》ように——《生きている証》が《痛み》の形でもたらされたように。

捧げることと傷つけることが紙一重であるような距離感——これこそが親密さだとも言える。全能の神との間には安全な距離があるが、傷つく神との間にはその安全がない。捧げる行為が相手を高めるのか傷つけるのかわからないまま、それでも全力を差し出す。この不確実性の中で行われる献身は、畏怖に基づく帰依よりもはるかに怖く、だからはるかに親密で、だからはるかにエロティックになる。

そしてこの構造は相互的で、互いが互いの鎧の下に触れ合っている。捧げ物が相手を動かし、相手の反応がまた捧げる者を動かす。この応答の連鎖——試合という形式の中で起こる相互的な被触——の中に、宗教的帰依にはない、生きた関係の手触りとエロティシズムがある。

エロティシズムとは、触れることと触れられることの相互性であり、自分が差し出したものが相手の内部に届き、相手が差し出したものが自分の内部に届くという、双方向の浸透。捧げ物が一方的に消費されるのではなく、捧げ物によって相手が変わり、相手の変化がさらに自分を変える。この循環の中に、宗教的崇拝とエロティックな献身が分かちがたく結びついている。


***


書き始めた時点では、「二つの宗教的体系が一人の人間の中で交差している」と言いたいだけだったんだけど、長々と連想が続いてしまった。

「for Yourself」のほうはまだ未点検の部分が多くてなんとも言えないが、「黒色のオーラ」は語彙のレベルでも意味内容においても多分に官能的ですてき。
個人的に好きだなと思うのは、近代的な分節化以前の、聖と性が分かたれていない地層を見せてくれること。文化の始まりの場所でもある。

作詞家の方個人にも興味が湧いてきた
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