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・『黒色のオーラ』と『for Yourself』の歌詞(目次)
★「歌詞」の投稿一覧
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249
《風が消えて 時が止まり 俺の
風林火陰山雷 うなり声上げた》
うなり声を上げたのは《俺の/風林火陰山雷》であって「俺」ではない。《俺の》の《の》は所有・帰属を示し、《風林火陰山雷》は「俺のもの」であるにもかかわらず、ここでは《俺》の制御下にはない。自分のものであるはずの技が、自分の意思を離れて自律し、勝手に身体を動かしている。身体が意思を裏切る。
風林火陰山雷は修練によって獲得された技であり、主体が意図して発動し、コントロールする武の体系である。能動性の極致、鍛錬された意志の結晶。その技が、主体の発動を待たずに《うなり声》を上げる。相手を前にして、意思の制御が追いつく前に身体が応答してしまう。
そして《うなり声》そのものが、意思的に発せられる声ではない。喉と声帯を意識的に制御して発する声ではなく、身体の内圧が声帯を通って不随意に漏れ出してしまう音。
《風林火陰山雷》という高度に洗練された武の体系が発する音が、洗練とは対極の、獣的な《うなり声》であるという矛盾。技は精緻であるはずなのに、その技が発する音は内臓的で生物的で、意思による制御が及ばない。
鍛え上げた技の核にある、鍛錬では制御しきれない獣性。文化的な構築物である武術の体系の内部で、言語以前の混沌から獣の声が噴出する。
身体の欲望は意思に先行して反応する。どれほど自己を鍛え、制御し、能動的な主体として鎧っても、欲望はその構築の内部で獣的な声を上げて鎧を突き破る。修練によっては制御できないものが修練の核にあることを、冒頭の二行がすでに語っている。
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《風が消えて》——肌に触れる外部刺激の消失
《時が止まり》——外界の秩序の後退、閉域の出現
《俺の/風林火陰山雷 うなり声上げた》——不随意の獣性の噴出
《容赦のない 神の領域へと》——苛烈な力への畏怖と期待
《行くぜ おまえだけに 逢うために》——親密な邂逅への希求
世界の他のすべてを後退させて、能動的な意思の統御もすてて、俺の全存在をかけてただ《おまえだけに》逢うのだという、欲望の純度の高さがすがすがしい。美しい歌い出し。
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246
『黒色のオーラ』の歌詞が好きな理由の一つは、「こんなふうに愛してみたい」の恍惚と「こんなふうに愛されてみたい」の恍惚を両方高い強度で味わわせてくれること。《いつもおまえがいるから 夢を思い出す》と、言ってみたいし言われてみたい。
歌詞だけを追っているときは前者が強く、歌として聴くと後者も強くなる。音楽を聴くことは文字を読むこと以上に受動的な体験で、物理的な音声の聴取によって否応なく「言葉を浴びせられる」位置に置かれる。さらに歌声という形で他者の身体性が介入することによって、同一化よりも対象化の比重が大きくなる。
上のフレーズは、口説き文句として発されていないからこそ強力な口説き文句として作用する。意図と目的の不在が真正さの証明になっている。相手を感動させようとしていない、本質的には相手に向けられてすらいない、自分に起きていることを自分で理解しようとしているに過ぎない、それがどんな欲望を露出させてしまっているか自覚がない。だから欲望の純度が高い。
私は元々このフレーズのあまりのロマンティックさと危うさに惹かれてこの曲が好きになり、だからこそ後に『for Yourself』の《Let Me Set You Free》を聴いて衝撃を受けた。だって前者は「おまえがいないと夢を思い出せない」という告白なのに(そしてそれゆえに)後者は「俺がいなくても夢を追え」というメッセージなわけで、切なすぎる。
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244
メモ:
①
《容赦のない 神の領域へと
行くぜ おまえだけに 逢うために》
ここで《容赦のない》が《神》に係るのか、《神の領域》に係るのかによって意味が異なる。前者なら容赦がないのは神であり、後者ならお互いに容赦をしない領域という意味も包含しうる。《非情なる本気こそが 俺たちの勇気だから》の先取り。
後者の場合、話者は自分が容赦なく向かっていく側だと認識していて、この認識のずれが《容赦のない》の帰属の揺れとして文法の水準に刻まれているとも読める。自分の容赦のなさだと思っているものが、実は相手の容赦のなさへの志向——容赦なく打ちのめされる場所に自ら向かうこと——であるという転倒。容赦がないのは誰なのか、相手なのか自分なのか、この問いが解決されないまま《行くぜ》という力強い宣言になだれ込む。
②
《友情あればこそ 今 本気で勝ちたい
願い裏腹にちから 奪い取られても》
「奪い取る」という動詞には身体的な質感がある。「奪う」だけなら、持っているものを取られるという比較的抽象的な経験だが、「取る」が加わることで接触と引き剥がしの身体性が増す。身体に密着していたものを、何かが力ずくで引き剥がしていくという感覚。力は話者の身体に属していたもの、身体と一体だったものであり、それを「奪い取られる」のは身体の一部を引き剥がされるような経験になる。冒頭では身体の外側を覆っていたもの(風と時間=外部刺激・時間・規範)が消え、ここではさらに一段進んで、身体に属していたもの(力)が引き剥がされている。
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243
風が消えて時が止まり(身体表面の感覚の空洞化)→力を奪い取られ(防衛の外層の剥奪)→箍が弾け飛び(意識的な拘束の崩壊)→見えない壁を壊し(無意識下の抑圧の解体)→底力のさらに底が開く(最も深い内部の開口)……と、冒頭で風と時=外界の刺激と秩序から切り離された身体が、テクストの進行とともに外側から内側へと順に開かれていって、この段階的な開口が最深部まですべて完了した後に《おまえの手で 確かめろ》が到来する。下準備が丹念である。
まず外界との接続が切れ、次に意思的な抵抗が消され、さらに拘束が弛緩し、なお残る不随意の緊張に逆らったとき、最も深い括約が開く。テクストはこの過程を丁寧に一段階ずつ踏んでいる。ついでにいえば「風」は「ならわし」とも読み、風習・風俗・風紀といった、社会的なしきたりをも表す。風が消えたとき、外界からの刺激がなくなると同時に、世俗の規範からも切り離される。だからその規範に立脚していた自己規律=箍も崩壊する。風紀委員長の「風紀」が消える。
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242
メモ:
①
《非情なる本気こそが 俺たちの勇気だから
絶望さえ 恐怖さえも 世界の終わりじゃない》
《絶望さえ 君は打ち砕いたのかい?
恐怖を抱いた 自分にももう余裕はない》
前者の文が言っているのは、絶望し恐怖してもなお世界は続く/自分は続く、裏を返せば絶望と恐怖の中にいてもなお終わらないでいられる……ということであって、絶望を《打ち砕いた》のとは異なる体験なのでは。
それにしても、恐怖を覚えて余裕を失した瞬間の人間はふつう《恐怖を抱いた 自分にももう余裕はない》などという三人称的・客観的な描写はしないよな。神の視点から冷静に自分自身の様子を観察している。この部分は原作でまさに三人称のナレーションとして書かれていた表現をそのまま持ってきているわけだが、一人称の歌詞の中に組み込まれると異化効果的な作用がある。
②《絶望の裏側に 夢の続きがある》——この《裏側》という空間的比喩は、何かを通過して反対側に出るという構造を持っている。絶望の内部を通過しなければ到達できない場所に夢の続きがあり、絶望と夢の続きは表裏一体である。やはり絶望を《打ち砕いた》のではなく、絶望は夢の続きの成立条件になっている。裏が砕けたら表も砕けてしまう。
③『黒色のオーラ』の歌詞には助詞の「は」が2回(リフレインを含めると3回)しか出てこない。対して「が」は12回(同14回)。
「は」は話者が対象を認識的に取り上げるという操作を文の表面に刻み、「が」はそのような操作を前景化しない。語る主体としての能動性は「は」の方に強く感じられるが、体験の強度としては「が」が勝る。「は」の話者は出来事を語ることを選んだ人であり、「が」の話者は出来事に動かされている人。歌詞全体の内容とも響き合う。
(上の《余裕はない》は、その意味でもやはり一歩引いた響きがある。)
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241
《いつもおまえがいるから 夢を思い出す》……この歌詞をカラオケで大声で歌うの、たいへん照れくさそう。読むだけでも照れくさいのに。私はしらふでは歌えん。
レコーディングしたときの役者さんはどう感じたんだろう……
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239
『黒色のオーラ』歌詞内の《友情》と《愛》と《夢》について。
防衛のために召喚された語が、防衛対象である欲望をすでに含んでいる…という話を2つ。
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《友情あればこそ 今 本気で勝ちたい
願い裏腹にちから 奪い取られても
弾け飛ぶ心の“たが” そこにある無我の境地
絶えず夢に 愛に誓う 壊せ見えぬ壁を》
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①先日の文章の補論:《友情》の二重性について
先日の分析では《友情あればこそ》を、《おまえだけに 逢うために》という漏出を塞ぐために召喚された防衛の語彙として読んだ。欲望が口をついて出た直後に、社会的に許容される名で上書きしようとする抑圧の動作として。
この読み自体は変えないが、一つ留保しておくべきことがあるので補足。先の分析では論の流れを明瞭にするためにあえて「防衛」の側面だけを追ったが、しかし《友情》を単なる偽装とするのでは、この語がこの歌詞の中で果たしている機能を見誤らせる。
男同士の間で——まして少年漫画の文法で——相手への強い情動的な結びつきを言語化しようとするとき、使える語彙はきわめて限られる。このテクストにおいては、たとえば「恋」は話者の意識に即座に退けられる。「信頼」や「尊敬」ではこの歌詞が描く感情の強度に足りない。その状況の中で「友情」は、男同士の間で「おまえは俺にとって交換のきかない存在だ」と言うことができるほぼ唯一の公認された形式である。(*「愛」については②で後述。)
したがって《友情あればこそ》と言うとき、話者は嘘をついているのではない。本当の感情を知っていて隠しているのでもない。何度も言うが彼は素直である。自分の語彙の中で、最大限の誠実さをもって感情を言語化しようとした結果が《友情》だ。
しかしテクストに書き込まれた実際の感情は、辞書的な定義に鑑みても実際の言語使用上のコノテーションに鑑みても、「友情」の語の容量を超えている。《風が消えて 時が止まり》——外界が消失し二人きりの空間に閉じる排他性、《おまえだけに 逢うために》——毎日「会って」いるはずの相手に《逢う》と言う切迫と《おまえだけに》に宿る欲望の唯一性、《来いよ おまえの手で 確かめろ》——自己の内部に生じた変容を《おまえの手》に触知されたいという身体的接触への希求、《いつもおまえがいるから 夢を思い出す》——本来は内的な欲望である《夢》への回路すら相手に預けている依存あるいは癒着……などなど。
これらはすべて《友情》の中に流れ込んでいるが、《友情》の公式な意味領域には収まらない。語は内側から膨張し、その表面に圧力がかかっている。《友情あればこそ》の《こそ》の力みは、この膨張の徴候としても読める。語の意味だけでは足りないから力を込める。あるいは、語の容量を超えた感情が内側から押し広げようとする圧力に対して、語の形を保とうとして力を込める。しかし力を込めるほど、この語が自身の意味領域を超えた何かを運ぼうとしていることが透けて見える。
ここで《友情》は蓋であると同時に通路でもある。欲望の性的な次元を検閲する蓋であると同時に、相手への感情の強度が社会的に許容される形で通過できる唯一の開口部。この二重性は、先の分析で追跡した漏出→防衛→崩壊の構造において、その防衛があれほどの速度で崩壊する理由を説明する。先の分析ではその理由を「防衛が本来の欲望と根本的に相容れないから」と書いたが、もう一段深い層がある。
防衛が速やかに崩壊するのは、防壁の素材そのものが欲望の媒体だからである。《友情》は欲望を塞ぐ語であると同時に欲望を運ぶ語であり、防壁の内部を、その防壁が塞いでいるはずの当のものが流れている。外部からの圧力で壁が破られるのではなく、壁が自らの素材によって内側から溶解している。《友情あればこそ》が《願い裏腹にちから 奪い取られても》へ一行で崩れ落ちる速度は、《友情》という語が最初からその内部に、自分を溶かすものを含んでいたことの帰結である。
この構造は《友情》に限られたものではない。この歌詞全体において、闘いの語彙は闘い以上のものを運ぼうとして軋んでいる。《願い裏腹にちから 奪い取られても》は抵抗する心と弛緩する身体の乖離を、《非情なる本気こそが 俺たちの勇気だから》はサドマゾヒスティックな親密さの過剰を、《神に捧げるのだ 全力を》にいたっては自己の明け渡しを運んでいる。そしてどの語も本来の意味領域を超えた重さに耐えきれず、表面に亀裂を生じさせている。先の分析で追跡した漏出とは、この亀裂から滲み出すもののことであった。《友情》はその最も凝縮された例にすぎない。
逆説的だが、男同士の親密さを表す語彙の貧困が、ここではテクストのエロティックな緊張を生み出す構造的な条件になっているともいえる。感情をぴったり表現する語が存在すれば、語は安定し、亀裂は生じない。語彙が不足しているからこそ、既存の語が耐えきれない圧力を受け、その圧力がテクストの表面を歪ませ、語が公式には運ばないはずのものが漏れ出してしまう。
これは精神分析がいう抑圧と回帰の論理そのもの——欲望は直接的な表出の経路を塞がれると迂回路を探し、その迂回路を通って回帰するとき、直接的に表出された場合よりもかえって過剰な強度を帯びる。この歌詞に宿る官能的な緊張の一因は、語ろうとして語りきれないものの圧力が語の表面をたわませていることである。
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②《友情》と《愛》と《夢》について
まず《友情》 は、話者が《おまえ》との関係を名指すために使用する最も直接的な語であり、同時に話者の意識にとって最も安全な選択である。しかし①で述べたように、その安全性はこの語が欲望の蓋であると同時に欲望の唯一の通路でもあるという二重性によって、内側から侵食されている。防壁の素材が欲望の媒体でもあるために、防壁は自己溶解し、一行すら持たずに崩壊する。《友情》は関係の名前として正面から使われるが、まさにその直接性ゆえに防衛として脆い。
《愛》 は、《友情》とは異なる仕方で処理されている。《絶えず夢に 愛に誓う》——《愛》は《夢に》の後ろに、並列の形で滑り込む。思わず漏出した《愛》が、先行する《夢》という防壁との並置によって、抽象的な理念の位置に安全に着地したかに見える。さらに「愛」は「恋」と異なり、性的な意味だけでなく非性的な意味にも接続しうるため、その多義性も安全装置として機能している——“チームへの愛”、“仲間への愛”、“同志への愛”。
そしてここで《愛》は、感情の名前ではなく、誓いの宛先として使われている。《愛を誓う》ではなく《愛に誓う》。話者は自分の感情を《愛》と名指してはいない。《愛》を自分の外部にある抽象的な審級——誓いを立てる相手——として迂回的に召喚している。
この配置の巧妙さは、《愛》を使いながら《愛》を自分の感情として所有することを回避している点にある。《愛に誓う》は、愛という原理に誓うという構文であり、自分が誰かを愛しているという告白の構文ではない。だから自我の検閲を通過できる。夢に誓い、愛に誓い、壁を壊す——これは戦士の誓いとして読める形式を保っている。
しかしここでもまた、テクストは話者の意識が許容したものを超えてしまっている。《愛に誓う》と口にした瞬間、話者がこの闘いの中で追求しているものの中に《愛》が含まれていることが露出する。そして《夢》と《愛》は構文上同格の位置に置かれているが、同じものではない。異なるものが同格に据えられることで、かえって意味の差異が際立つ——《夢》は自己の理想に向かうが、《愛》は他者に向かう。そしてこの闘いの中に他者は一人しかいない。このテクストの運動は一貫してその一人の他者に流れており、《愛》もその流れに逆らわない。
さらに、《夢に 愛に誓う》の並列において、《夢》は一見すると抽象的な理念として安全に機能している。話者にとって「夢に誓う」は完全に無害な表現であり、スポーツの文脈で何の問題もなく通用する。《夢》は《愛》の危険性を中和する安全な語として並置されている……ように見える。が、実のところテクストの中で《夢》は全く安全ではない。
まず《いつもおまえがいるから 夢を思い出す》という文の構造を追えば、《夢》は《おまえ》なしには想起すらされない。夢を思い出すのはいつもおまえがいるからである、おまえがいないときには夢を思い出さない、夢はおまえの存在によってのみ活性化される……《夢》と《おまえ》は絶対的に不可分である。しかも《いつも》の語が、これを一度や二度の偶然ではない恒常的な構造として成立させている。(*こちらを参照)
この構造のもとでは、《夢》と《おまえ》の間にある実質的な差異がきわめて薄くなる。夢を思い出すこととおまえの存在を感知することが、同じ経験の二つの側面になっている。《夢》は《おまえ》の別名であり、《おまえ》は《夢》の内容である。
そうなると、《夢》はもはや《愛》の中和剤にはなりえない。《夢》はそれ自体が《おまえ》に浸透されている。そして《夢に 愛に誓う》において、この浸透された《夢》と《愛》が隣り合い、《誓う》という述語を共有している以上、《愛》もまた《おまえ》の方向へ引き寄せられずにはいない。《友情》と同様に、防壁だったはずの《夢》が、防衛対象である欲望をすでに含んでいる。
《夢に 愛に誓う》——これは話者の意識においては「理想と愛に誓う」であろうが、テクストの論理においては「おまえに、おまえに誓う」という同じ一点への二重の呼びかけに等しい。ここにも、先の分析で見た《おまえだけに 逢うために》における同語反復と同じ構造が現れている。《逢う》の中にすでにある排他性を《だけに》が重ねて刻んでいたように、《夢》の中にすでにある《おまえ》を《愛》がもう一度重ねている。
そして《絶望の裏側に 夢の続きがある》が、この構造をさらに深くする。
《夢の続き》は幸村の曲のタイトルからの引用である(しかも続編まで制作されていて人気も存在感も大きい曲の)。であれば《夢の続きがある》という表現は、テクストの外部にある《おまえ》の言葉をテクストに取り込む行為である。話者が《夢の続きがある》と言うとき、それは抽象的な希望の表明であると同時に、《おまえ》の言葉を自分の口で反復する行為でもある。《おまえ》の語彙が話者の語彙の中に侵入している。
さらに、この引用が置かれている場所の意味——《絶望の裏側に 夢の続きがある》。力を奪い取られ、たがが弾け飛び、底が開き、栄光がこぼれ落ち、光が消え去り、全力を神に捧げた後の——すべてが通過された後の認識として置かれている。自我の崩壊を通過した先で見出されるものが《おまえ》の言葉なのである。
自分の言葉がすべて尽きた場所で、残っているのは相手の言葉。自我が溶解した後に残る言語が、自分の語彙ではなく相手の語彙であるということ——ここには被侵入性の非常に深い形態がある。自分が最も深い場所で語る言葉が、実は相手の言葉だった。
そしてこの浸透は、《夢》という語がこの歌詞の中で果たしてきた機能の全体を遡行的に書き換える。《夢》はこの歌詞の中で複数回使われている。《絶えず夢に》《夢を思い出す》《夢の続き》。話者にとって《夢》は自分の内発的な志向性——自分の目標、自分の理想——として使われているだろう。しかしその《夢》が《おまえ》と不可分であり、しかも《夢の続き》が《おまえ》の語彙であるならば、話者が「自分の夢」として語っているもの自体が、最初から《おまえ》によって浸透されていたことになる。
主体の最も内的な動機として機能しているものが、実は相手に由来するものである。自分の欲望だと思っていたものが、相手の存在によって生み出され、相手の言葉によって形を与えられたものである。自分の内部だと思っている場所に、すでに相手がいる。
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《友情》《愛》《夢》の三語はいずれも、テクストの内的な論理によって同じ一点に収束する。《友情》は《おまえ》との関係を名指し、《夢》は《おまえ》なしには想起されず、《愛》は《夢》と並置されることで《おまえ》に接続する。異なる語を使って異なることを言っても、どの語も同じ一点——《おまえ》——に向かっていく。語彙を変えても変えても同じ場所に帰ってきてしまう、この反復のどうしようもない不随意性。
これらの三語はそれぞれ異なる距離と角度から《おまえ》への欲望を運びながら、いずれもその欲望の全体を名指すことには失敗している。どの語も感情に対して不十分であるために、内側から膨張し亀裂を走らせてしまう——その緊迫こそがこのテクストの醍醐味ともいえる。三語がすべて《おまえ》に収束するのに、《おまえ》への想いを正確に言い当てられる語はどこにもない。見つけられない。名指されない欲望の必死さが、聴く者の身体を打ち続ける。
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(余談)
ついでに「恋」について言うと。日本語の意味として「恋」の核にあるのは、対象との間の隔たりを埋められないまま求め続けるという構造。そしてこの歌詞の、毎日顔を合わせている相手に「逢いに行く」と宣言しなければならないという事態の異様さは、物理的な近さでは埋められない隔たりが存在することを示す。つまり普段は、会っていても逢えてはいない。このテクストで話者が求めている《逢う》の内実は、日常的な「会う」の延長線上にはない。それは《容赦のない 神の領域》に踏み込むこと——自分が壊されることを引き受けること——だから。
物理的な距離はすでにない、それでも逢えていない。隔たりの原因が距離ではない以上、距離を詰めても解決しない。毎日顔を合わせるたびに、物理的にはここにいるのに欲望が求める水準では相手に自分を見せられていない/見てもらえていないという事実が反復される。近さが隔たりを解消するのではなく、残酷にも近さこそが隔たりの感知を鋭くする……テクストの構造が「恋」と同型のものを描き出している。(もっといえばこれは「片想い」と同型か。)
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234
《容赦のない 神の領域へと
行くぜ おまえだけに 逢うために
友情あればこそ 今 本気で勝ちたい
願い裏腹にちから 奪い取られても》
これはなんだかもう教科書的なほど分かりやすく明瞭に、抑圧と回帰の構造を圧縮して記述しているな……。漏出→防衛→崩壊という三拍子。
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《容赦のない 神の領域へと/行くぜ おまえだけに 逢うために》——ここで話者は二つのことを同時に言っている。一つは、相手の領域が《容赦のない》場所であること——そこに行けば自分は打ちのめされるということを知っている。もう一つは、それでもなお《おまえだけに 逢うために》行くということ。打ちのめされることを知っていて、なお逢いに行く。しかも《おまえだけに》。この表明は非常に無防備で、ここで話者は一瞬、自分の鎧を落としている。
そして《だけに》と限定を付せずとも、もともと「逢う」という語そのものに、特定の一人への志向性や排他的な関係性が内包されている——「彼に逢う」は自然だが「みんなに逢う」は奇妙である。
なぜなら「逢う」が「会う」と異なる点は、その出会いに強い感情的な重みがあること、容易には実現しない出会いであること、そしてその出会いが身体的な結合を含意しうること——これらの条件がすべて満たされるとき、必然的に相手は唯一の存在になる。強い感情的な重みを持つ出会いは、誰とでも起きるものではない。容易には実現しない出会いは、不特定多数との間には成立しない。身体的な結合を含意する出会いは、その瞬間において一対一のものである。
つまり「逢う」と言った時点でもう、相手が「おまえだけ」であることが成立する。だから《おまえだけに 逢うために》は、語の中にすでに存在する排他性を明示的に言い直している、一種の同語反復とすら言える。しかしこの同語反復が無意味かと言えば逆で、話者が《だけに》をわざわざ付け加えているということは、《逢う》の排他性を無意識に感知しながらも、さらにそれを強調せずにいられなかったということ。語がすでに言っていることをまたも重ねて唯一性を二重に刻んでしまう、この過剰さの中に無自覚な切実さがある。
この《だけに》の排他性は闘いの論理では説明がつかない。単なる競技上の対戦相手に「逢う」ために行くとは言わない。ましてや《おまえだけに》とは。ここで漏れているのは、《おまえ》が交換のきかない唯一絶対的な存在であること、そして容赦なく打ちのめされることそのものが《おまえ》に逢うことの条件である——あるいは打ちのめされることと逢うことが区別できない——という欲望の構造。容赦なく打ちのめされる場所にこそ、ただひとり逢いに行きたい相手がいる。
そしてこの漏出の直後に《友情あればこそ》が召喚される……この配置は驚くほど心理的に正確かつリアルである。《おまえだけに 逢うために》と愛の告白にも等しい切迫が口をついて出てしまった直後に、《友情》という語が急いで挿入される。今自分が言ってしまったことの意味に無意識のレベルで気づいた話者が、慌てて社会的に許容される語彙で自分の発話を上書きしようとする抑圧の動作。《逢いたい》と言ってしまった、これはまずい、だから《友情》だと言い直す。さらに《本気で勝ちたい》という競技的な目的を重ねることで、《逢うために》の受動的な欲望を「勝つために」という能動的な意志に翻訳し直そうとする。
ここでは《友情あればこそ》の《こそ》の強調も逆に不自然さを生んでいる。本来なら試合において《勝ちたい》という意志に特別な理由など存在しない。勝負はただ勝負だから勝ちたいのである。その動機をわざわざ《友情あればこそ》と強い語調で支えなければならないのは、わざわざ支えなければ崩れてしまうかもしれないから。
しかしこれらの防衛がどれほど脆いかは、次の行で即座に証明される——《願い裏腹にちから 奪い取られても》。《勝ちたい》と宣言した直後に、もう奪い取られている。《友情》と《勝ちたい》が支えようとした能動的主体の構えが、一行すら持たずにあっけなく崩壊してしまう。機能するために召喚されたのではなく、機能しないことを示すために存在している防衛であるかのように。
この崩壊の速度自体が語っていることがある。防衛が速やかに崩壊するのは、それが本来の欲望と根本的に相容れないからである。《勝ちたい》は能動的な欲望であり、主体が力を行使して相手を制圧するという方向性を持つ。しかし話者の本来の欲望は《おまえだけに 逢うために》であり、その《逢う》ためには自分が壊れなければならないことをテクストはすでに知っている。だから《勝ちたい》という防衛は、立てた瞬間に内側から崩壊する。ほかでもない話者の欲望そのものが、この防衛を維持することを拒んでいるから。
ここで《願い裏腹に》という語句が一つの屈折を示す。話者は自分の願い(勝ちたい)と実際に起きていること(奪い取られる)が《裏腹》であると認識している。しかしこの《裏腹》という認識自体が、もう一段の防衛である。話者は「本当は勝ちたいのに、不本意にも奪い取られてしまう」と理解している。しかしテクスト全体の論理が示しているのは、「奪い取られる」ことこそが欲望の方向であり、《勝ちたい》のほうがむしろ欲望に対する防衛だということだ。
本当は《裏腹》なのではなく、《勝ちたい》が表面に貼り付けられた偽の願いであり、《奪い取られても》のほうが本来の欲望に沿った事態である。《願い裏腹に》という語句は、この転倒を隠蔽する最後の防衛線として張られている。本当は裏腹ではない。本当は一貫している——奪い取られることを知ってなお逢いに行く、そしてたがが弾け飛ぶ、底が開く、開いた中に相手を招く、絶望と恐怖の中で栄光も光もこぼれ落ちて消える、すべてを失いつつある瞬間に全力を捧げる——テクストの運動は同じ方向に向かって流れている。《友情》と《勝ちたい》と《裏腹に》だけが、その一貫した流れに逆らおうとして失敗している。
漏出→防衛→崩壊の三拍のリズム。話者の無意識が欲望していることは、まず《おまえだけに 逢うために》という形で先に漏れ出す。次に意識的な自我が慌ててそれを《友情》《勝ちたい》で塞ごうとする。しかし身体はすでに欲望の側にあり、《ちから 奪い取られても》という受動態がその事実をあっさりと露呈させる。防衛は欲望の速度に追いつけない。そして《弾け飛ぶ心の“たが”》以降はもはや自我の検閲が機能していない——なぜなら彼はもう自我を失して《無我の境地》にいるから。
さらに、《奪い取られても》の《ても》という助詞の機能について。この《ても》は逆接だが、その逆接が接続する先が明示されないまま次の連に移行する。文法的には「奪い取られても、なお闘う」「奪い取られても、諦めない」といった能動的な帰結が想定されるはず……だが、テクストが実際に接続するのは《弾け飛ぶ心の“たが”》——自我の崩壊である。
つまり、《ても》が約束していた抵抗は遂行されない。逆接の構文だけが抵抗の身振りを残し、内容としては抵抗の不在が——というより抵抗の放棄が描かれる。文法が能動性を約束し、意味が受動性を遂行する。この文法と意味のずれは、話者の意識と実態のずれ——抵抗するつもりでいる心と、すでに開かれつつある身体——の、文体的な刻印といえる。
もっといえば《ても》の宙吊りは、《奪い取られても》という発話行為そのものが、すでに奪われることの受け入れとして機能していることを示してもいる。「ても」は既定の事柄だけでなく、未成立の仮定に対する逆接を示す助詞でもあり、この歌詞ではどちらの用法か確定しない。《ても》を未成立の仮定と読んだとき、《奪い取られても》と口にすること自体が、奪われることを想像し、予期し、ある意味で先取りしている。抵抗の語彙が、抵抗の対象を呼び込んでいる。
そしてここが何より重要なのだが、この歌詞では話者の抵抗が本物だからこそ、エロティックな構造が強化されている。
彼は誠実である。素直である。なにひとつ嘘をついていない。本当に友情のために勝ちたいと思っている——少なくとも意識の水準では。《本気で勝ちたい》の抵抗が本物であるからこそ、それが崩壊するときに官能が生じる。薄い壁が壊れるのと分厚い壁が壊れるのでは、崩壊の音が異なる。この曲ではテクスト全体を通して、自分を守ろうとする力と自分を開こうとする力が同一の身体の中でせめぎあい、後者が前者を圧倒していく。その過程の一つ一つの瞬間に、本気の抵抗と屈服の間の緊張がある。
話者はテクストの冒頭から重武装している。《風林火陰山雷》——六重の防壁で自己を覆った存在。この防壁は技術体系であると同時に、この主体の存在の仕方そのものである。厳格さ、自己規律、容赦のなさ——しかしこの自我の鎧は曲の進行とともに一枚ずつ剥がされていく。鎧が内側から軋んでうなり声を上げ、たがが弾け飛び、底が開き、栄光を失いすべてを捧げる。鎧を着た身体が、鎧の内側で膨張する欲望によって内部から裂けていく。
しかし話者はこの欲望を欲望と認識していない。そのため、それらは闘いの語彙に翻訳されて噴出する。ところがその翻訳は完全ではなく、いたるところに受動的な欲望の原型が透けて見える。《来いよ おまえの手で 確かめろ》——攻撃性と降伏の融合。《なぜだ闘いながら 強くなるのは》——自身の変容に自己認識が追いつかない困惑。闘いの語彙と受動への欲望のせめぎあい、そこにある緊張こそが快楽を生む。
上に挙げた四行には、その緊張と混淆が凝縮された形で表れている。防衛の構築と崩壊が、極めて短い時間の中で完結している。その速度の中に抗いがたい気持ちよさがある。自我がどれほど抵抗しても、いつだって欲望のほうが速い。
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歌として聴いていると、声の力もあいまって……冒頭の《風が消えて 時が止まり》で外界が消失し二人きりの空間に閉じてからの《行くぜ おまえだけに 逢うために》に至る流れがあまりにもロマンティックであり、だからこそ次の瞬間に置かれる《友情》が唐突すぎて、いっそほほえましくなってしまう。そんな無理しなくてもいいのに…という気持ちと、でも無理してるからこそかわいいんだよな…という気持ち。
(【追記】上の分析についての補論を書きました。)
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233
「誰よりもそう知っているよ」
「誰よりも、そう。知っているよ」
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《見据えるのは 熱く真っ直ぐな精神(こころ)
強さも脆さも 誰よりもそう知っているよ》
このフレーズの《そう》について。
もし《そう》が存在せず「強さも脆さも 誰よりも知っているよ」であれば、意味はより露骨になる。俺は君を誰よりも知っている、という直接的で強い認識の所有の宣言。しかし実際には《そう》が挿入されており、発話のニュアンスが少し異なる。
文法的には、ここで《そう》は指示副詞なのか感動詞なのか曖昧である。というより、そのどちらとしても機能している。
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①「文」の中の《そう》——指示副詞として
まずこのフレーズを「文」として見たとき、《そう》は指示副詞として働いている。直前の《熱く真っ直ぐな精神》《強さも脆さも》を一つの像として束ね、《強さも脆さも》という一見両立しにくいものを含んだ相手の全体を、「そのように」「そういうものとして」知っているという意味を示す。
これは「君は熱く真っ直ぐで、なおかつ強さがあり、脆さもある」という直線的な情報の並列ではなく、それらが不可分だという認識——「君という存在は、強さと脆さが切り離せない形で成り立っているものだと知っている」。その「知っている」の様態を《そう》の一語で示している。「君について多くを知っている」という量の主張よりも、「君をどういう存在として受け取っているか」という質の主張に重心がある。
さらに「そう」には確認や承認のニュアンスがあり、「まさにそうだ」「俺はそれをその通りだと認めている」という含みを持ちうる。《誰よりもそう知っているよ》は、「君の真実はそういうものだと、俺は誰よりも深く承認している」という響きを持つ。これは認識であると同時に認証でもあり、話者は相手の性質に対する真実性の保証者の位置にも立っている。
そして冒頭で述べたように、「誰よりも知っているよ」だけだと、もっと所有的で事実認識の優位を言い立てるトーンになるだろう。しかし《そう》が入ることで、知識はわずかに触感を帯びる。「俺は君のことを、そんなふうに、ちゃんと知っているよ」——監視的な把握よりも、感受的な理解の意味合いが前景化される。相手に対する認識の優位を露骨にしすぎないための緩衝材として作用している、ともいえる。
しかし同時に、これらは認識の独占性を深める方向にも働く。なぜなら、上述したような「そう」の性質によって、《強さも脆さも 誰よりもそう知っているよ》という文における知の対象は、外形的な事実ではなく「君の本質的なあり方」になるからである。相手の情報を誰よりも持っているという意味を超えて、「君という存在がどんなふうに成り立っているか、その強さと脆さがどう絡み合っているかを誰よりも知っているのは俺だ」という意味が生じる。つまり《そう》は知の射程を表面的な事実から内的な構造へと深化させているわけで、優しい語であると同時に解釈権の宣言でもある。
さらに、指示詞には常に明示された内容以上のものを包摂する力がある。ここで《そう》は直前に言語化された《強さ》《脆さ》だけでなく、まだ言語化されていない何かまで含めて指しうる。それは話者自身が言語化していないものであると同時に、相手自身が言語化していないもの、彼の自己理解が追いついていないもの、彼の中でまだ名づけられていないものをも含む。相手の自己認識の背後に回り込み、「君の在り方の意味を、君より先に俺は知っている」という位置を取りうる。
そして指示語である以上、《そう》は言語化の限界を示す記号でもある。話者は相手を「強い/脆い」と二分して終えるのではなく、その二つを同時に含んだ何かとして把握しているが、その実態を既知の言葉で言い切ることはできない。そこで、名づけ尽くせないものを指し示す最小限の語として《そう》が入る。
「君はこういうふうに〇〇で……」と言語化したいが完全には言語化できない。その言えなさを抱えたまま、それでも「知っている」と言う。だから《そう》には、解釈権の強さと言語化しきれないものへの接近が同時にある。
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②「歌」としての《そう》——感動詞として
①で述べたのは、《そう》が認識の語でありながら同時に関係の内部性を刻む語でもあるという二重性である。知を深化させると同時に知を身体化する、解釈権を行使すると同時にその行使を親密さの中に溶かす。この二重性は、この歌詞を歌として聴くとき、もう一つの水準で実現されている。
《誰よりもそう知っているよ》のフレーズを歌として聴くと、「誰よりも、そう。知っているよ」という韻律を形成しており、ここで《そう》は感動詞としての響きが強い。
歌唱では、《強さも脆さも 誰よりもそう》の後に8分休符が挟まってから《知っているよ》に続く。この休符によって、《そう》は歌唱の流れの中でいったん宙吊りにされる。聴き手はこの瞬間、《誰よりもそう》の先に来るはずの述語を待ちながら余韻の中に置かれる——あるいはまだ述語に到達していないにもかかわらず、すでに《誰よりも》という比較の極点まで連れて行かれる。この配置によって《そう》は、統語上は後続の《知っているよ》と一体であるにもかかわらず、聴覚的には切り離されて一瞬だけ独立した発話として聴こえる。
つまり楽曲のパフォーマンスによって、統語的には副詞であるはずの《そう》が感動詞的としても機能している。
感動詞は統語上必要な情報を追加するのではなく、話者の感情や相手への呼びかけを生(なま)の形で記述する。感動詞としての「そう」は、話者の認識・態度・反応を表すマーカーとして働く。
この文における《そう》の感動詞としての機能には、まず自己確認の側面がある。強さも脆さも誰よりも――と言葉を紡いできた話者が、《そう》と一度立ち止まる。この語と次の休符の瞬間に、話者の内面では「ああ、そうなんだ、俺は確かにそれを知っている」という、既知の事柄に対する再帰的な確認が起こっている。
この自己確認が挟まることによって、後続する《知っている》は即断ではなく、一度受け止められ、心中で確認された知として響くようになる。この微細な間が認識に身体性を与え、頭脳的に導いた結論というよりも、すでに身に沁みてわかっていることを静かに言い直しているニュアンスが生じる。
さらに、決意や覚悟の表出。《見据えるのは 熱く真っ直ぐな精神》という力強い宣言の流れの中にあるこの《そう》は、強さと脆さの両方を知っているという事実を逃げずに受け止める態度の表明として聴こえる。感動詞の「そう」が持つ「引き受け」のニュアンスが、歌全体の決意の文脈と共鳴して覚悟の一語として響く。
これらには受容の温度もある。感動詞の「そう」が持つ相槌の機能は、相手の言葉に理性的に同意するだけでなく、「うん、わかっている」「そのままで受け取っている」という受け入れのニュアンスも帯びている。「君の強さも脆さも——そう、誰よりも知っているよ」と、相手の全体性を静かに肯定する慈愛的な頷き。《そう》が認識を情動化し、知を慰撫に近づけている。
①も含めて以上の整理を踏まえると、《そう》の語は、話者が相手との関係の内部にいて、なおかつその感情を理解している者であることも示す。
これは『for Yourself』の《Let Me Set You Free》や《これからは自分の為に》といった、『黒色のオーラ』のテクストに対する一種の脱魔術化的なメッセージが、まさにその魔術の中心から発せられている……という構造とも響き合う。話者は相手を彼の欲望の外部から客観的に眺めているのではなく、欲望の内部から語っている。彼の《知っている》が外在的な観察知ではありえないことが、《そう》の一語にも現れている。
もし外部から診断を下すだけなら、「知っている」だけで足りるだろう。しかし《そう》が入ることで知は身体化される——「君がそうであることを、そういうふうに震えていることを、そういうふうに壊れやすいことを、俺は知っている」という、関係の内部で得られた知の告白になる。指示副詞としての《そう》も感動詞としての《そう》も、ともにこの機能を果たしている。
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歌詞の文字面だけ読めば指示副詞で完結するところに、歌唱のタイミングという韻律的な要素が加わることで感動詞的な意味層が立ち上がる。書き言葉と話し言葉の境界、さらにその先にある「歌い言葉」とでも呼ぶべき領域で、「そう」という語の多機能性が美しく発揮されている。
あるいは——言語の実際の使用においては、指示と応答、意味の伝達と身体的な頷きは、一語の中に未分化なまま共存している。文法学的な「品詞」の区分はこの未分化な一語を事後的に切り分ける操作にすぎない。《そう》が指示副詞としても感動詞としても機能しうるのは、二つの異なる機能がたまたま一語に重なっているからではなく、そもそも話者の「そう」という発話が、認識と応答と身体的受容を分離していないからである。
そしてこの未分化さこそが、この語がこのテクストにおいて担っている力の核心に関わる。『for Yourself』の話者は、認識の言葉を発しながら、その認識が身体的な関係の内部から来ていることを隠しきれない。外部からの診断と内部からの愛撫を分離できない。《そう》はその分離不可能性が一語に凝縮した場所であり、歌唱はこの未分化さを声の物質性として実現している。
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「誰よりもそう知っているよ」、怖い顔で言われたら怖い言葉だと思う。しかしやはり声が清らかにかわいいせいで怖さは後退し、受容ないし “よしよし” 感が生じている…
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231
『for Yourself』が真に分離(癒着の切断)を志向する曲であるなら、《You Go Further Away》が3回もリフレインされたのちに《We Go Further Away》という結論に至るのではなく、その逆の順序のほうが自然である。俺たちはもはやWeという共同体ではなく、君はYouという独立した存在なのだ……と。
しかし実際には最後の最後でWeに回帰する。《You Go Further Away》の痛みに耐えきれなかった話者が、《We Go Further Away》の中にせめてもの救いを見ようとしてしまうみたいに。その意味でもこの曲は、分離の命令を完全には遂行できていない。
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226
《行くぜ おまえだけに 逢うために》
《来なよ本気で 轟く咆哮に大地がうなり声を上げた》
前者は歌声は勇ましいものの 勝負より逢瀬が第一の目的であることを歌詞が告白してしまっており、後者は歌詞は闘争的であるものの 歌声が可憐なせいで勝負の招きというより「親しみに満ちたお誘い」になってしまっている。前者は言っている内容がかわいい、後者は言っている声がかわいい。
もし男性声優の硬質な、あるいは逞しい声で歌われていたら、『for Yourself』のメッセージはファリックな道徳的テーゼに聴こえたんじゃないかと思う。あの透明で繊細で柔らかい声によって、善悪の価値判断ではなく祈りとしての優しさや切なさが前景化している。
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225
自由にされるのは救済ではなく魔法を解かれること…と前に書いたが、『for Yourself』の厄介さは、脱魔術化を世界の外部から冷静に遂行しているわけではないことにある。《強さも脆さも 誰よりもそう知っているよ》という一節が示すのは客観的な理解ではなく独占的な認識の宣言であって、ここで話者は単に「自由になれ」と教えられる清潔な他者ではない。相手の欲望の構造を、彼自身以上に知っている者として発話している。
つまり脱魔術化は魔術の外部からではなく魔術の中心から行われている。《Let Me Set You Free》は理性的な助言であると同時に、欲望の中心そのものから発せられた命令でもある。この点で『for Yourself』は平板な健全化の歌にはならず、魔法を解く言葉自体がなお魔法的な権威を帯びている…
俺は君を誰よりも知っている、君の強さも脆さも、君自身が知らない欲望さえも見えている、君が君自身よりも俺に規定され、自律を預け、欲望の源泉を明け渡し、自分の内部の回路を占拠させていることを知っている、そして俺自身も君によって深く打たれ刻まれた者である、俺は君の愛の強度を身体に覚えている、それが俺の生の証にすらなっている、しかしだからこそ、俺への感情が君を縛っていることもわかっている、君の歌は一種の症例報告であると同時に壮絶なラブレターであり、壮絶なラブレターであると同時に一種の症例報告である、だからせめて俺からの返歌として愛をもって、俺に君を自由にさせてくれ——これは臨床的介入か、あるいは新たな別の魔術か?
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224
キャラソンだからどうしても「このフレーズは作中の描写に照らして何を指しているか」という考え方をしてしまうし、それはもちろん必要な視点だけど、同時に作中エピソードとキャラソンの歌詞は独立した別個の作品でもある。
というわけで今後の思考の参考として、作中エピソードと歌詞の相違点および共通点を整理してみる。
なお原作とアニメ版のあいだにも非常に大きな差異があるが、歌詞は明らかにアニメ版も参照して書かれているため、以下はアニメ版を基準に記述している。
細部まで挙げているとキリがないので、とりあえず主要なポイントのみ。
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◆A:作中エピソードと歌詞の相違点
①『黒色のオーラ』
(1)物語を動かす力
作中エピソードで試合を成立させている直接の契機は、U-17合宿の「同士討ち」という制度的・外的な強制である。ダブルスペアを組んだパートナーと実際にはシングルスで勝負させられ、負けた方は合宿を去るというルールがあり、その上に幼少期からの関係史、部活、病気による不在、絶対勝利の掟といった集団的文脈が重ねられている。ここでは試合は制度・学校・部活・歴史が二人の身体に流れ込んでくる場でもある。
対して歌詞はその制度的枠組みをほぼ消去し、「俺」と「おまえ」の二人だけの情動の空間へと純化させている。作中にある「部のため」「無敗」「天下を獲る」「合宿に残る/去る」といった社会的な動機は後景化し、《おまえだけに 逢うために》《おまえの手で 確かめろ》《いつもおまえがいるから》と対他関係が前景化される。作中エピソードが制度の中で裂かれる二人を描くのに対し、歌詞は制度を脱色して、二者間の関係と欲望だけを残している。
また、作中の試合には制度の悪意がある。「ダブルスを組め」という命令が、実際にはパートナー同士の殺し合いに変わる。二人の関係は、この外部からの仕掛けによってなかば強制的に剥き出しにされる。しかし歌詞はこの制度的な残酷さを消し、試合を自発的な接近の場として描いている。《神の領域へと/行くぜ》と言うとき、そこにはコーチの命令も合宿脱落のルールもない。作中では「やらされる対決」であったものが、歌詞では「自ら赴く巡礼」に変換されている。この差によって、関係の暴露が外的な強制ではなく内的な欲望の成就として立ち上がる。
加えて、作中では真田は幸村を「全国連覇という重圧を共に背負った、いわば同志」と名指す。ここでの「同志」とは、部の歴史や栄光、共同の責務の中で結ばれた政治的・集団的な関係を前景化する語であろう。これに対して歌詞は《友情あればこそ》《愛に誓う》と言う。「同志」から「友情」そして「愛」への移行——「同志」が外的な目標によって結ばれた関係であるのに対し、「友情」「愛」はもっと私的で親密な感情である。この二語によっても作中にあった集団性が脱色され、二人だけの関係に引き寄せられている。
(2)情緒的な相互性と一方向性
作中エピソードでは幸村のモノローグが重要な役割を持っており、彼は真田に感謝し、真田の強さを認め、同時にそのまっすぐさの危うさを見抜き、最後には「これからは君自身のために歩め」と言う。作中の幸村は——当然ながら——単なる崇拝の対象ではなく、自分の言葉と意思を持ち主体的に動く存在である。
他方で『黒色のオーラ』の歌詞では、彼は応答する主体であるよりも到達すべき高み/奪い取る手/全力を受け取る審級として置かれている。作中エピソードの双方向性と比較すると、歌詞は極度に一方向的である。作中では二人のあいだに対話とすれ違いがあるが、歌詞ではそれが一方向的な祈りと奉献の形式に変わっている。
また、作中には「共に天下を獲る」「三年間無敗でいけるといいね」という、二人が同じ方向を見る同盟的な目標がある。ここでは二人は、少なくともある時点までは「一緒に勝つ」側にいる。ところが歌詞では、この共同性がきわめて希薄化している。あるのは《おまえだけに 逢うために》《神に捧げるのだ 全力を》であって、共同で世界を獲る未来ではない。作中の「共に天下を獲る」は政治的・集団的な野心だが、歌詞ではそれがほぼ消え、関係はきわめて私的で垂直的なものになる。
(3)非対称性の扱い
作中エピソードでは二人の「差」が露骨に言語化される。「君に俺は倒せない」「俺と君の差は、永遠に埋まらない」——この宣告は残酷で、しかも真田自身の「弱い心が作り出した幻影」として示されるため、外部の圧力であると同時に自己の内なる声としても響く。
歌詞にはこの種の直接的な宣告は出てこない。格差は《神》という語や《ちから 奪い取られても》《栄光がこぼれ落ちて》といった表現に変換される。作中エピソードが「おまえは届かない」というメッセージを打破すべき困難として描くのに対して、歌詞はその届かなさこそを美しい敗北や奉献の形式へと美学化している。非対称性は一方では残酷な真理として語られ、他方では快楽的な儀礼として歌われる。
(4)敗北の意味
作中エピソードにおける敗北も関係の核心に触れているものの、それは第一に試合の結果であり、制度的な裁定であり、五感を奪われ身体を打たれ、握手の資格すらないと感じる屈辱を伴う現実である。そこには明確な傷と未達成がある。
ところが歌詞では、敗北が《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際》と美しい閾の時間に変換されているうえに、その局面で行われる行為は《神に捧げるのだ 全力を》である。ここで敗北は裁定ではなく奉献の条件になっている。作中エピソードの敗北が、奪われ屈服させられ、しかしなおその手を拒むという苦い分離の出来事であるのに対し、歌詞の敗北は、失われつつある自己をそのまま相手へ差し出すための美しい典礼的瞬間として描かれる。
(5)自己解体の様態
作中エピソードで真田を崩壊させるのは、幸村の側からもたらされる感覚剥奪と、白い空間における幻影の包囲である。そこでは「君には俺を倒せない」「差は永遠に埋まらない」と語る複数の幸村の像に囲まれ、その「自分の弱い心が作り出した幻影」と闘わなければならない。作中エピソードにおける自己の解体は、外から侵入してくる幸村の力と、その力を内面化した真田自身の弱さの結託として描かれている。白い空間や五感の喪失、胸への着弾は、きわめて暴力的で受動的な破壊である。
対して歌詞では、《願い裏腹にちから 奪い取られても》《弾け飛ぶ心の“たが”》《底力の さらに底が開く》——剥奪と崩壊は外部からの精神的拷問としてではなく、主体がその先へ進んでいくための内的開口として表現される。作中では崩壊はまず恐怖であり屈服であるのに対し、歌詞では崩壊は享楽と覚醒の契機になっている。
換言すると、歌詞は作中における受動的破壊を、自ら進んで受け入れたい崩壊へと変換している。作中では幸村の力が真田を圧倒するが、歌詞では真田自身が《神の領域へと/行くぜ》と言う。作中では幸村の能力が真田を白い無力の空間へ落とし込むが、歌詞では真田は心のたがが弾け飛び、底が開き、奪われることを含んだままそこへ向かう。同じ非対称性が、作中では侵襲として、歌詞では奉納として描かれている。
(6)接触の扱い
作中エピソードの最後には握手の拒否がある。幸村が差し出した握手の手を、真田は取らない。「俺には、その手を握る資格は、まだない」というモノローグが示す通り、ここでは接触は延期される。身体は最後の最後で切断される。
また作中では、幸村の打球が真田の左胸——心臓の位置——に直撃する場面が描かれる。これはほとんど暴力的な貫通であり、触れたい接触ではなく倒される接触である。しかし試合後の握手の手は取られない。接触は暴力として起こり、最後の和解的接触は拒否される。
ところが歌詞では《おまえの手で 確かめろ》と、相手の手による接触がはっきりと欲望されている。さらに《神に捧げるのだ 全力を》は、単に遠くから崇拝するのではなく、自分の全力が相手に受け取られることを前提にしている。敗北の内部にすでに受理されたい欲望が書き込まれている。
作中の物語が「差し出された手を取れない」地点で終わるのに対して、歌詞の物語は「相手の手によって受理されたい」欲望に貫かれている。作中エピソードは「打たれる身体」と「握手できない身体」を描き、歌詞は「触れられたい身体」を描く。前者は失敗した接触の物語であり、後者は触れられることを希求する物語であるともいえる。
(※これを書きながら、作中には病床の回想の中で手を握り合う描写も存在することを思い出した。これについてあとで補足するかもしれないししないかもしれない。)
(7)時間の構造
作中エピソードでは、幼少期から現在までの具体的な歴史が回想として幾度も挿入される。四歳の出会い、小学生時代、ジュニア大会、立海入学、病室——それらが並べられることで、二人の差と絆が時間の蓄積として描かれる。しかも白い空間の中ではその過去が幸村の幻影として反復され、「お前には俺を倒せない」という形で真田を拘束する。そこで過去は現在を圧迫するトラウマのように働く。一方で、歌詞では具体的な過去のエピソードの多層性は見えなくなっている。
さらに、作中では四歳・小学生・中学入学前後・現在と、複数の幸村の姿が描かれ、しかもそれらが幻影として多重に現れる。ここで真田が向き合っているのは、一人の固定された相手ではなく、年月を通じて内面化され堆積した相手の像の総体である。歌詞はこの複数性を後退させ、相手を単数的な存在に凝縮する。作中描写は記憶的かつトラウマ的で、時間の層を持っている。歌詞はその層を捨てて絶対的単数へ向かう。結果として歌詞では、欲望はより純粋に現れるが過去の沈殿は薄れている。
また、《あの日があるから今があるといつか振り向くなら/それは今日さ》というフレーズは、今日のこの対決は未来からの回顧によってより決定的な一日として成立する、ということを語っている。今日の闘争が未来において原初的な《あの日》として回想されることを、歌詞は先取りしている。これは精神分析でいう事後性そのもので、主体はこれから起源になる場面を現在において作り出そうとしている。
(8)分離の命令と結合への衝動
作中エピソードの最後に幸村が言う「これからは君自身のために歩め」は、二人のあいだに引かれた依存的な回路を断ち切ろうとする言葉である。幸村は真田を、幸村のために強くなろうとし、幸村の不在を埋めるために部を統べ、幸村を基準に生きる状態から切り離そうとしている。これは個体化の要求であり、教育的・倫理的な言葉でもある。
ところが歌詞は正反対で、《いつもおまえがいるから 夢を思い出す》と言ってしまう。ここでは主体は相手を離れて自己へ戻るのではなく、相手がいることによってしか夢を保持できない。作中描写が「自分自身のために歩め」と命じるのに対し、歌詞は《おまえだけに 逢うために》と言う。作中エピソードは分離へ向かい、歌詞は再結合へ向かう。関係の行き先そのものが逆になっている。作中の倫理性を歌詞が徹底して脱色している、ともいえる。
……と書いている途中で気づいたが、これは歌詞と作中描写の差異というよりも、作中にそもそも存在していた二人の心理の齟齬の表出と読む方が正しそう。作中で幸村が「これからは君自身のために歩め」というモノローグを発する一方で、真田は——いかにも忸怩たる様子で——「俺には、その手を握る資格は、まだない…」と語るのである。自分を相手との関係から切り離して考えるのではなく、なお相手の前での自分の値打ちによって自己を測っている。彼が距離を取るのは自己のためではなく、「幸村に触れるに足る資格がない」という相手中心の論理の帰結——これはまさに『for Yourself』の、「もう自分を俺との関係の中で測るな」というメッセージが解こうとしている構造そのものなのに。
(9)神性の扱い
作中エピソードは幸村の神性をある種危険なものとしても描いている。白い空間における幼い幸村たちの幻影は、真田いわく彼の「弱い心が作り上げた」像であり、それを「幸村ではない」と否認して立ち上がることが精神的克服として描かれる。つまり作中エピソードには、幸村を絶対化した内的イメージから脱する運動がある。
これに対して歌詞は、その絶対化を解除しない。むしろ《神の領域》《神に捧げる》と、相手の神性を積極的に肯定し、その神性のもとへ自ら赴く。作中では神格化は内的な呪縛として一度は退けられなければならないが、歌詞では神格化こそが欲望の中心に据えられている。作中の物語は、神格化の呪縛とそこからの抵抗を含む。歌詞の物語は、神格化の完成とその前での自発的な供犠を描く。
(10)病歴と不在の扱い
作中エピソードでは幸村の病気と不在が重要な要素だが、歌詞ではそれが消えている。作中の幸村はかつて病床にあり、不在であり、戻ってきた身体でもある。つまり神性は——「神の子」キリストの受難のごとく——傷つきうる肉体と結びついている。だからこそ真田には「守る」という回路が生まれる。
しかし歌詞では《神》はもはや病む身体ではなく、純粋な高みとして扱われる。弱さや不在の記憶が退き、垂直性だけが残る。作中では《神》であることと「病む身体」であることが同居しているため、関係には看護や代行の契機が入るが、歌詞ではそれが脱色されて神への単純な奉献の色が濃くなっている。
(11)関係の起源の描かれ方
作中エピソードにおける二人の関係は、まず相手の美や明るさに当てられて身体が反応してしまうところから始まる。初対面(おそらく)の場面では四歳の幸村が笑いかけ、真田が赤面して目を逸らす。関係の原点は「見られる→魅了される→視線を逸らす」という、羞恥と惹かれと動揺の混じった、受動的に身体が乱される反応として描かれている。
歌詞はこの起点を不可視化している。そこでは関係の始まりにあった不随意の魅了はなく、最初から《行くぜ おまえだけに 逢うために》と、主体的に相手に向かっていく意志だけが前景化される。相手に不意に捕まえられてしまう受動性の原点が、歌詞では後退している。
(12)勝利への意志とその裂け目
「俺は真っ向勝負で、お前に勝つ!」という宣言が示すように、作中エピソードは真田の能動性をはっきりと描いている。歌詞にも《本気で勝ちたい》はあるが、その直後に《願い裏腹にちから 奪い取られても》が来てしまう。作中では、能動的な意志と敗北の矛盾は展開の結果として現れる。歌詞ではその矛盾が一つの連なりの中でほぼ同時に書かれる。つまり歌詞のほうが、勝ちたい意識と奪われたい欲望の裂け目を直接に露出させている。作中では物語がその矛盾を示すが、歌詞は文そのものが矛盾している。
(13)《闘うために 立ち上がれ》の意味
歌詞の最後の《闘うために 立ち上がれ》は、作中の文脈に鑑みるなら同士討ち戦の後に続く物語——崖での特訓、革命軍としての帰還、シャッフルマッチなど——への布石として読みうる。しかしこの歌詞のテクスト内部では、このフレーズは循環運動の命令として機能している。1番のサビが最後に反復されて《闘うために 立ち上がれ》と命じられ、主体は何度でも《弾け飛ぶ心の“たが”》へ戻る。主体は解決されて安定するのではなく、再び同じ場面へ赴くことを命じられている。原初の遭遇を反復しつつ、そのたびに新たな起源を作る循環運動であり、その意味で全体は反復強迫の歌でもある。
(14)まとめ
作中エピソードが描いているのは、制度に強制された試合の中で幼少期から続く非対称な関係が暴かれ、絶対的な相手の内面化された像に打ちのめされつつも、そこから自分自身へ歩み出せと命じられる、分離と個体化の物語である。これに対して歌詞が描いているのは、その制度的・倫理的・教育的な文脈を捨象し、二人の関係を垂直的に純化したうえで、敗北を分離ではなく奉献の欲望の充足として美学化する物語。
前者が依存からの切断を志向するのに対し、後者は依存を聖化し、その内部にあるエロティックな美を前景化している。作中エピソードが複雑かつ時に残酷で、相互的かつ教育的な物語であるのに対して、歌詞はその複雑さを犠牲にしてでも、男から男への奉献の快楽と美しさを抽出している。その偏りこそがこの歌詞の強度を作っている。
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②『for Yourself』
(1)物語の枠組み
最も大きな差は、作中エピソードが「制度に強制された同士討ち」の物語であるのに対し、歌詞は「二人のあいだで遂行される倫理的な切断」の物語になっていることだろう。前述した通り、作中エピソードでは試合は個人的感情だけでなく、集団的・制度的文脈の中に置かれている。
しかし『for Yourself』の歌詞は——『黒色のオーラ』と同様に——その外部条件を無化している。1番冒頭の《久しぶりだね こんなふうに二人で向き合うのは》というフレーズには合宿の罠も敗者退場のルールも部の事情もなく、ただ《二人で向き合う》という関係の親密さだけが呼び起こされている。作中エピソードが制度によって裂かれる二人を描くのに対し、歌詞はその制度を脱色し、二人だけの関係の内部で生じる決断として物語を純化している。
(2)主体の位置
作中の幸村は試合の執行者であるのに対し、歌詞の主体はほとんど臨床家のように、相手の欲望の構造を読み、それを切断しようとする存在へ変質している。作中エピソードの中心にあるのは試合そのものの残酷な力学だが、歌詞の核心にあるのは試合後にまで延びる「解放」の言葉である。
作中において幸村は容赦ない攻撃のすえに勝利する側であり、相手を精神的にも身体的にも圧倒する者として描かれている。他方で、歌詞はこの攻撃の側面を著しく薄める。《額かすめて世界を切り裂いた》《恐怖を抱いた 自分にももう余裕はない》と、相手からの反撃により揺さぶられる場面は残るが、作中にある五感剥奪——これは公式設定上、幸村自身の意志的な「技」ではないものの——の苛烈さや白い空間での支配、胸への打撃といった、幸村の側から加えられる暴力は前景化されない。歌詞の主体は相手を追い詰める者ではなく、相手を知りつくして見据え、彼の夢を見届け、そして最後に「自由にする」と誓う者として立っている。
(3)非対称性の扱い
前述の通り作中エピソードは非対称性を露骨に描くが、歌詞ではその非対称性を相互性に言い換える力学が強く働いている。《信頼も 葛藤も きっとお互い》《楽しい時 苦しい時 いつだって君がいたから》——関係はエモーショナルに対称的なものとして語られる。作中描写では幸村の側の圧倒的優位が強く、両者は同じ重みで「お互い」とは言いにくい。歌詞はその勾配を意識的に均し、相互依存の物語へ近づけている。
(4)神性の扱い
『for Yourself』は幸村視点の歌詞であるから当然といえば当然なのだが——作中エピソードが「神格化された相手からの脱出」を部分的に描いているのに対し、歌詞はその神格化を扱わない。作中の真田の「俺の弱い心が作り上げた、幸村の幻影」というモノローグは、絶対化された幸村の像が彼の内部に病理的な形で棲みついていることを示す。
歌詞ではその幻影性や投影性がほぼ消えている。《強さも脆さも 誰よりもそう知っているよ》と言い、《Let Me Set You Free》と言う幸村は、真田の内部に棲みついた幻想の像としてではなく、現実に相手を理解し、解放しようとする位置に立つ者として描かれる。作中描写が問題提起していた神格化と転移の構造が、歌詞では肯定的に受け取られているともいえる。作中にあった「これは本当の幸村ではない」という裂け目が、歌詞では大幅に後退している。
(5)感謝の内容
作中エピソードで幸村が真田に感謝するのは、「俺が不在の中、立海三連覇のために」「絶対勝利の掟を作って、部のために尽力していた」からであり、さらに「君のおかげで、もう一度コートに立つことができた」という病と復帰の文脈がある。感謝はとりわけ病歴に根ざしており、非常に具体的である。
歌詞ではそれが《楽しい時 苦しい時 いつだって君がいたから/今の俺があるさ》と、主体の存在理由にまで拡大される。感謝は存在論的なレベルまで一般化され、私化されている。病も部も掟も言及されず、ただ《君がいた》ことだけが《俺》の中に絶対的な重みとして残る。この一般化によって感謝はより普遍的で親密なものになり、同時に作中にある歴史的・制度的な重さは後退している。
(6)認識の温度
作中エピソードでは幸村の真田に対する理解が「戦術的な洞察」としても働いている。たとえば「君の強さは、そのまっすぐな心にある…しかしそれが、命取りになることも、あるんだよ」というセリフには、相手の本質を見抜きつつそれを利用する冷たさがある。ここでは理解はそのまま攻撃の契機になっている。
一方で歌詞では、その理解は《強さも脆さも 誰よりもそう知っているよ》と、親愛の告白のような形を取る。作中では残酷でもあった知が、歌詞では温かい理解へと軟化している。ここでも、作中にあったサディスティックな力学が抑制されている。
(7)《Let Me Set You Free》
作中エピソードでは試合後に接触の失敗が起こるが、歌詞ではその失敗が《Let Me Set You Free》という言葉に置き換えられている。作中で真田は握手のために差し出された手を、「俺には、その手を握る資格は、まだない」と拒んで去っていく。そしてその後に幸村が、去っていく彼の背中を見ながら内心で「これでいい…これからは君自身のために歩め、真田」と語る。つまり作中のこの言葉はあくまでも、拒絶された後に生じる静かな承認——あるいはもしかすると、拒絶された事実を合理化する事後的な認識——である。
対して歌詞では握手の失敗は語られず、《去りゆく背を見つめて 誓うよ》の直後に《Let Me Set You Free》と述べられる。ここで《これからは自分の為に/歩め》は、拒絶された後の沈黙のうちにある認識ではなく、明確な誓いと介入の言葉に変わっている。
また、作中では去る主体は真田の側にある。彼が握手を拒み、彼が立ち去る。歌詞では《You Go Further Away》のフレーズが繰り返され、《去りゆく背》が見られているものの、同時に「自由にする」主体としての幸村が強く前景化されている。作中で第一歩を実際に踏み出しているのは真田だが、歌詞はその契機を幸村の誓いとして回収している。
さらに、作中の「これでいい」は冷静で断定的だが、歌詞の《Let Me Set You Free》ははるかに未練を含んでいる。作中の幸村は、真田が自分の手を拒絶して去っていくのを見て、それを必要な分離として受け入れる。そこには痛みはあっても判断の揺らぎは——少なくとも明示的には——書き込まれていない。他方で歌詞の《Let Me Set You Free》は、命令ではなく許可の要請である。「自由にしてやる」ではなく「自由にさせてくれ」——解放はまだ相手の同意に依存している。したがって、作中エピソードが結果としての分離を受け入れる物語であるのに対し、歌詞は分離を遂行したいが、その遂行自体がなお相手との関係の内部に縛られている物語になっている。
(8)解放の単数性と複数性
作中エピソードの最後は個体化の命令だが、歌詞の最後は共同の離隔である。作中にあるのは「これからは君自身のために歩め」——君は自分自身のために歩むべきだ、という単純だが重い命令。歌詞はそれを《You Go Further Away》から《We Go Further Away》へ変える。ここでは「君が自分自身へ向かう」だけでなく、「俺たちは遠ざかっていく」という共同の運動が置かれている。作中のラストシーンが比較的きっぱりとした個体化の宣言であるのに対し、歌詞のラストでは「俺たち」という複数形を保持しながら離れていく。作中では「君自身」が主題になるが、歌詞では最後に「俺たち」が残る。
(9)《遠慮》の意味
作中エピソードで試合の前に交わされる「遠慮はせんぞ、幸村」「遠慮したことないだろ、真田は」というやりとりが、歌詞では《遠慮とか容赦なんかは 必要ないだろ?》に変形されている。作中の「遠慮したことないだろ、真田は」という発話には、以前語用論的な観点から分析したような屈折があるが、表面的にはこの応酬は試合で手加減をしないという競技的な確認でもある。
歌詞では同じ《遠慮》の語が、別れと解放の倫理に接続される。遠慮や容赦を捨てるべき対象は、プレーの強度だけでなく、関係を断ち直す決断そのものである。つまり歌詞は作中の競技的な言葉を、別れの倫理の言葉へと読み替えている——この関係を今の形のまま温存したくなる自分たちの甘さに対して、遠慮も容赦もするな、と。
重要なのは、この一行が断定ではなく疑問形であること。《必要ない》ではなく、《必要ないだろ?》と言う。この《だろ?》は、真田への呼びかけであると同時に、自分自身への言い聞かせとしても響く。正しい決断だと分かっていても、心理的にはまだ完全には断ち切れていない。その未練と自己説得が、疑問形として表出している。
(10)《頬に覚えた熱い痛み》
歌詞は作中エピソードの外部にある記憶を持ち込んでいる。《あの時 たった一度だけ/頬に覚えた熱い痛み 生きている証》——これは、負けた部員に容赦なく鉄拳制裁を喰らわせる真田が幸村に手を上げたのは「たった一度だけ」、彼が弱気になった際……という公式設定からの引用だが、この設定は同士討ち戦のエピソードの中では参照されていない。もっというと、原作やアニメのストーリーの中では一度も言及されたことがない(※)。ファンブック(40.5巻)の中の小さなスペースで短く述べられているに過ぎない設定である。しかしこの設定が、『for Yourself』においてはエモーショナルなクライマックスを形成している。それが叙述としては小さいにもかかわらず、意味としては巨大だからだろう。
作中の物語そのものは、試合とその直後の出来事で閉じている。歌詞はそこに別の時点の——しかも身体接触の——記憶を差し挟むことで、試合の意味を「一戦の勝敗」から「二人の身体に刻まれてきた関係史」に拡張する。つまり歌詞は作中エピソードの内部だけで完結せず、二人の歴史のより親密な層にある最も濃い身体性を呼び込みながら試合を再解釈している。
(※:もし私が見逃しているだけで言及されていたらすみません…。)
(11)まとめ
作中エピソードが描いているのは、制度に強制された試合の中で、幼少期以来の非対称な関係や内面化された像、部活と病気の歴史、感謝と残酷さ、そして最後の不接触が露わになる、具体的かつ残酷な物語である。これに対して歌詞はその具体性と残酷さの多くを取り払い、「相手を深く知っている者が、彼を自分から自由にしようとする」という、より倫理的かつ相互的で抒情化された物語を描いている。
作中には試合があり、敗者の退場があり、幻影があり、拒絶された握手がある。歌詞にはそれらの結果として抽出された「理解」「恐怖」「信頼」「葛藤」「見届け」「解放」がある。前者が関係の破綻の現場を描くのに対し、歌詞はその破綻の意味を美しく言語化し直したテクストになっている。作中の試合が切断の出来事そのものであるなら、歌詞はその切断に意味を与える回想的・倫理的な再記述である。
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◆B:作中エピソードと歌詞の共通点
①『黒色のオーラ』
(1)試合の意味
歌詞と作中エピソードの双方に共通している第一の核は、この試合が一般的な勝負ではなく、「ただ一人の男」に向かって自己の全体を差し出す出来事として構成されていることだろう。作中の真田にとって幸村は単なる対戦相手ではなく、幼少期から自己形成の中心にいた特権的他者である。四歳での出会いから立海での共同の野心、病中の不在の穴を埋めようとする行為まで、彼の強さは最初から幸村との関係を軸に編成されている。歌詞の《おまえだけに 逢うために》は、その構造を凝縮した言い方として読める。作中でも歌詞でも、試合の目的は「誰かに勝つこと」ではなく「おまえに逢うこと」にある。
(2)強さの構造
歌詞でも作中エピソードでも、真田の強さは自己完結的なものではなく、幸村という他者の前で最大化される強さとして組織されている。作中の「今持っている俺のすべてを、このお前との勝負に…懸ける!」というセリフは、そのまま歌詞の論理に接続している。『黒色のオーラ』における《弾け飛ぶ心の“たが”》《底力の さらに底が開く》《覚醒する 潜在能力》といった記述は、真田の内部に元からあった力がただ発現するのではなく、幸村との対峙によって初めて閉鎖が破られ、底が開き、通常の自己を超えた強度が現れるという構造を示す。彼の異様な反撃と黒いオーラの噴出は、作中でもまさに幸村に追い詰められた極限の場面で起こる。つまり両者に共通するのは、幸村が真田にとって単なる障害ではなく、自己の底を開かせる装置そのものとして作用する構図である。
(3)関係の非対称性
前述の通り、作中エピソードでは非対称性が露骨に言語化され、歌詞では《神の領域》《神に捧げる》という語に変換されている。表現形式は異なるが核は同じで、真田にとって幸村は対等なライバルではなく、自分の力を測り、それをなお超えて自分を奪い、受け取るに足る上位者として立っている。この垂直性が作中では残酷な宣告と剥奪として、歌詞では奉献と神格化として現れる。
(4)敗北の機能
敗北は関係の真理に触れる契機になっている。作中の試合で真田は感覚を奪われ、幻影に囲まれ、胸を打たれ、最終的に負ける。しかしその敗北の中でこそ黒いオーラが現れ、幸村の側も「何だ、あれは」と動揺させられる。敗北は真田の無力の証明であると同時に、もっとも深い自己の露出でもある。歌詞はこの構造を《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に/神に捧げるのだ 全力を》という形で美学化している。両者に共通する核は、彼にとって幸村との対戦が「失われることを通して最も深い自己が現れる場」だということ。作中ではそれが暴力的/惨烈に描かれ、歌詞ではそれが供犠の美に変換される。
(5)関係史の凝縮
作中エピソードは四歳の出会い、小学生時代、ジュニア大会、立海入学、病室……と具体的な場面を重ねることで、現在の試合を過去全体の決算として描いている。歌詞はそれを《あの日があるから今があるといつか振り向くなら/それは今日さ》と言い直す。ここで《今日》が特別なのは、過去のすべての蓄積がこの瞬間に向けて張られているからである。作中エピソードが履歴の厚みとして示したものを、歌詞は起源の一行半に凝縮している。
(6)まとめ
歌詞と作中エピソードに共通する核をまとめると、《俺》が《おまえ》という唯一の男の前で自己の全体を懸け、自己の限界を破られ、敗北と崩壊を通してこそ最も深い強度に達するという物語である。勝負の語彙を取るにせよ神と供物の語彙を取るにせよ、この構造は変わらない。男から男への単数的集中、非対称な憧憬と従属、そしてその前で自己が破れていくことの美——これらが歌詞と作中エピソードを貫く共通核といえる。
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②『for Yourself』
(1)認識の絶対的優位
両者に共通している第一の核は、幸村が真田を「誰よりも深く知っている者」として立っていること。作中で幸村は、「君の強さは、そのまっすぐな心にある…しかしそれが、命取りになることも、あるんだよ」と言う。同時に自分が不在のあいだ立海を背負い、勝利の掟を作り、部を守ろうとしていた真田の行為の意味を見通し、それに感謝している。つまり彼の表面的な強さだけでなく、その奥にある構造——まっすぐさ、献身、脆さ——を把握している。歌詞の《強さも脆さも 誰よりもそう知っているよ》は、その認識の特権的位置をそのまま言語化したものである。
(2)存在論的依存の記憶
作中のモノローグで幸村は「君には本当に感謝している」「君のおかげで、もう一度コートに立つことができた」と語る。前述の通り、ここでの感謝は具体的な記憶に結びついている。歌詞ではそれが《楽しい時 苦しい時 いつだって君がいたから/今の俺があるさ》と、より私的・抒情的に再編される。表現の温度は異なるものの、「君なしには今の自分は存在しない」という認識が双方を貫いている。幸村だけが与える側/断つ側なのではなく、幸村自身もまた真田によって成り立っているという相互依存の核を共有している。
(3)知的優位の揺動
さらに両者に共通しているのは、真田の覚醒が幸村の側をも揺るがすこと。作中で幸村は黒いオーラを前にして、「何だ、あれは……錯覚……いや…」「テニスを楽しみたいと思っていた…でも、そんな余裕はなさそうだ」と動揺する。ここでは、幸村の認識の優位と余裕が真田の反撃によって破られている。歌詞の《不意にボールが 額かすめて世界を切り裂いた》《恐怖を抱いた 自分にももう余裕はない》は、その瞬間をより内面的・形而上学的に書き換えたものである。彼は真田を見抜いているだけの安定した審級ではなく、その真田によって現実に傷つけられ、揺さぶられ、余裕を奪われる。この相互被触があるからこそ、『for Yourself』は単なる上位者からの訓戒になっていない。
(4)感情を言葉にしない
作中で二人は非常に多くを背負っているにもかかわらず、それを率直に交換しない。真田は「同志」「勝つ」と言い、幸村は「感謝」「まっすぐな心」「自分のために歩め」と言うが、その背後にある依存や献身や執着や分離の痛みそのものは、直接には名指されない。歌詞の《信頼も 葛藤も きっとお互い/言葉にはしないけど 感じるよ》は、この沈黙の様式をそのまま言語化したものとして読める。両者に共通しているのは、「最も重要なものほど、二人のあいだでは直接言葉にされない」という関係の形式である。
(なお『黒色のオーラ』においては対照的に、話者の感情表現は作中よりも饒舌。)
(5)癒着の切断
最も重要な共通核は、幸村が真田を自分から切り離そうとすること。作中では試合後、握手の手を取らずに去る真田の背に向けて、幸村はモノローグで「これでいい…これからは君自身のために歩め、真田」と語る。彼は真田の強さがあまりにも自分へ向けて編成されてきたことを知っており、だからこそそこから解放しようとする。『for Yourself』は、この一点をほとんどそのまま標題にまで押し上げている。《それでいい これからは自分の為に/歩め Living for Yourself》は上記のモノローグの抒情的な展開である。
また、その切断が冷たい拒絶ではなく、深い巻き込まれののちに行われる痛みを伴う切断であることも両者の共通項である。作中の幸村は真田の行為に感謝し、その強さを理解し、自分がどれほど彼の人生の中心にいたかを知ったうえで、それでも——だからこそ——「自分のために歩め」と言う。歌詞でも同様に、《去りゆく背を見つめて 誓うよ》《Let Me Set You Free》と、見送る視線と切断の誓いが重なっている。ここで共有されているのは、関係が浅いから離れるのではなく、深すぎるからこの形のままでは続けられないという切実な構造。切断は無関心の結果ではなく、過剰な癒着への応答である。
(6)まとめ
歌詞と作中エピソードに共通する核をまとめると、《俺》が《君》の強さと脆さを最も深く理解している男として、彼の人生が過剰に自分へ向けられていることを認識し、その関係に感謝しながら傷つけられも揺さぶられもしたうえで、なお最終的には「自分のために歩め」と言わなければならないという物語である。理解、感謝、動揺、そして切断——これらが表現の形を変えながらも歌詞と作中エピソードの両者に共有されている。
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★最後に両曲と作中エピソード全体に共通するさらに深い共通項をまとめるなら、「この男だけが自分を最も深く変えてしまう」という事実であろう。『黒色のオーラ』では全力の奉献と自己崩壊の形で、『for Yourself』では理解と感謝と切断の形で、それが現れる。作中エピソードはその二つを試合という形式の中で同時に描いている。男から男への特権的で不可逆な作用——この一人の男だけが、自分の強さも脆さも、生も敗北も、自由さえも組み替えてしまう——その力学が、三つのテクストを貫く最深部の共通核といえる。
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長過ぎんだろ………
後半に行くにつれ文章がどんどんガタついていくのがわかって泣ける。
そして書けば書くほど書き足りないことが炙り出される。作中情報を括弧に入れるか否かによって読み方が大きく変わる部分は他にもたくさんある。
そして本来書きたいものはこの種の構造分析ではなく、たとえば《おまえだけに 逢うために》の《逢う》の一語がいかに重層的に機能しているかとか、それが《久しぶりだね こんなふうに二人で向き合うのは》に翻訳された際にどう変質しているかとか、そういう文字表現の細部に宿るミクロでロマンティックな楽しさについてなんですが……最初に書いた通り、ひとまず今後の思考の参照項として置いておく。
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223
(追記・補足)幸村のセリフの屈折を前景化させるために真田の方を「きわめて直接的かつ未来志向」と整理してしまったが、彼の言葉ももちろんただ単線的なものではない。試合において相手に遠慮をしないのは彼にとって本来は意識するまでもなく当然の前提のはずであり、《遠慮はせんぞ》なんてことをわざわざ宣言してしまっているところに屈託が響く。(追記ここまで)
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歌詞そのものの話からは離れるが…
歌詞の《遠慮とか容赦なんかは 必要ないだろ?》を読むための土台として整理してみる。
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原作・アニメ版に共通の、試合前のやりとり
(*原作ではこの一往復だけで丸1ページが割かれている):
《遠慮はせんぞ、幸村》
《遠慮したことないだろ、真田は》
この応酬は一見すると単なる試合前の軽口のようだが、よく読むと込み入っている。二人が同じ位置に立っていないことが、文法と語用の水準で刻まれている。
まず、真田の発話はきわめて直接的かつ未来志向で、《遠慮はせんぞ》は自分の意志の宣言である。「俺」が省略されていても主語は明白であり、発話はパフォーマティヴに働いている——今ここで、相手に向けて、自分の姿勢を言葉によって確定させる。しかも呼格の《幸村》が文末に置かれることで、その宣言は明確に目の前の相手へと差し向けられる。「おまえに対して俺は遠慮しない」という、正面からの申し出。
ところが幸村の応答は全く異なる形式を取っている。彼の言葉は自分の意志の表明ではなく、相手についての認識の表明である。また時制的にも、未来の誓約ではなく過去から現在にわたる性質の確認になっている。「しない」ではなく《したことない》である以上、「君はそもそも昔からそういう男だ」と、関係の履歴全体を参照して答えている。真田が現在の局面に懸けているのに対し、幸村はその局面をすでに知っている歴史の反復として処理している。
当然ながらこれは「俺も遠慮しない」という対等な応答ではない。相手の宣言を受け取って、それを新しい情報としてではなく、最初から分かっていたものとして言い換える操作である。相手の真剣な申し出を、自分がすでに知り尽くしている性質に回収することで、場の主導権を握っている。「今ここで自分の本気を差し出す」に対して、「そんなことは昔からだろう」——告白が出来事にならず、既知の属性として処理されている。
さらに《真田は》の《は》について。助詞の「は」は単なる主題の提示だけでなく、しばしば「少なくともこれについては」「これに関して言えば」という限定・対照の含みを帯びる。とりわけこの文のように文末に後置されている場合はその含みが強まる。すなわち《遠慮したことないだろ、真田は》は、直線的に述べるなら「真田について言えば、君は昔からそうだった」という意味であり、すると当然、語られていない残余が生じる。
この残余は「俺は違う(=遠慮したことがある)」ことを明示するわけではないが、少なくとも「君はそうだが、俺がどうかはここでは言わない」「俺は君と同じ水準では自分を開示しない」という差が立ち上がる。真田が全部出してしまうのに対して、幸村は出さない。その出さなさが、《は》によって文法的に支えられている。
さらにこの返答は、呼びかけの形式を微妙にずらしてもいる。真田の《幸村》は純粋な呼格だが、幸村の《真田は》は呼格ではなく統語に組み込まれた主題である。前者が相手に直接呼びかけているのに対して、後者は相手を文の中に置いて語る対象にしている。言い換えれば、真田は二人称の「おまえ」と向き合っているが、幸村は三人称の「真田」という存在を見て定義している。前者は接近の言葉であり、後者は認識の言葉である。この一往復だけで、真田が関係の中へ身を投げ出す側であり、幸村がその関係を一歩引いて把握する側であるという構造が示されている。
また、この応答にある軽いからかいの調子も非対称性を強めている。真正面から「俺も本気で行く」と返すなら、まだ相互性の気配がある。しかし《遠慮したことないだろ》という微笑的な応答は、相手の昂りを受け止めながら、それを上から撫でるような処理として響く。これは親密さの表現であると同時に、相手の情動を自分の理解の中に包み込む操作でもある。一方の中では「今、この瞬間だけ」の切迫した宣言であるものが、他方の中では「いつも通りの君」に還元される。その包摂に親しさと支配が同居している。
……といったように、このやりとりは二人の認識の質的な差異を短く圧縮しているものとしても読める。君の剥き出しの全力を、俺はとうに知っている——この知の優位性が、『for Yourself』の歌詞にも色濃く現れている。
***
……みたいなことを言語化するまでもなく、アニメ版のこのシーンの声の演技からすべては明白なわけですが。
書いてみて改めて思ったけど、こういう言語化って非常に無粋でもある……批評とは無粋で野暮。でも書きたくなるから書く。
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222
「for You」から「for Yourself」に方向性を反転させている…と書いたけど、しかし同時に、あくまでも「for Yourself」であって、「be Yourself」や「by Yourself」ではないんだよな。
自己へ帰れ、自分になれ、一人で立て、という自己完結の語ではない。君自身のために生きてくれ——「for」が残っている以上、『黒色のオーラ』の、すべてが誰かのために組織される統語法そのものは棄てていない。その宛先を「You」から「Yourself」へ付け替えているだけで。
さらにいえば「Yourself」という語はそれ自体が、自己を単純な一体性としてではなく、「生きる主体」と「その生を向けられる受益者」に分割している。「自分のために生きる」と言うとき、そこでは他者の内在が無意識に前提されている——すでに自己は内部で二つに割れている。精神分析的に言うなら《歩め Living for Yourself》は、リビドーの備給を他者から自己へ再配分せよという命令。
だから『for Yourself』が目指しているのは完全な自己同一性ではなく、他者に向けられていた奉献の回路を、自分という内的他者へ差し替えること。奉献の論理そのものは手放せていないところに、この曲の“臨床的介入”の限界が現れているともいえる。
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221
《底力の さらに底が開く
来いよ おまえの手で 確かめろ》
これは、相手の手によって自分を確かめられたいという希求。
《あの時 たった一度だけ
頬に覚えた熱い痛み 生きている証》
これは、相手の手によって自分を確かめた——確かめさせられた——記憶。
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215
普通の強調と紛らわしいので、今後曲名は二重カギでくくることにする。
***
私は『黒色のオーラ』の歌詞を読んで「こんなふうになってみたい」と思うタイプの人間であるため、『for Yourself』側の《Let Me Set You Free》という応答を見ると、せっかく一人の相手へ向かってあれほど美しく壊れていけるのに、どうしてそれを手放さなければならないのか……という喪失感に襲われる。寂しい。私だったら解放されたいなんて全然思わない。
『黒色のオーラ』では、歌詞の描く運動のすべてが《おまえ》に向かっている。おまえだけに逢うために神の領域へ向かい、おまえの打球を打ち返したことで潜在能力が覚醒し、開いてしまった自分の最深部におまえの手を呼び込み、強くなるのも夢を思い出すのもおまえがいるからだと無防備に告白し、輝きが落ち光が消え、もはや自分を誇れない瞬間にこそすべてを捧げる——つまりこの曲は、徹頭徹尾、“for You”の歌である。
それに対して『for Yourself』は、方向を反転させている。「君のために」ではなく「君自身のために」。君のために俺の身を捧げるのではなく、君自身のために俺は身を退く。この曲が相手に対する表のメッセージとして言っていることを——無粋ながらも——圧縮してしまうと、「君がどれほど深く俺に縛られているか、俺は知っている。しかもその縛りは俺にも届いている。だからこそ君は俺を神の位置に置いたまま捧げ続けるのではなく、俺から離れて、自分のために生きろ」ということになる。
だから《Let Me Set You Free》——俺に君を自由にさせてくれ——なのだが、『黒色のオーラ』の歌詞を愛する感覚にとっては、ここでの「解放」は救済ではなく、魔法を解かれることである。自分を神のもとへ運んでくれていた強烈な回路から外され、ふつうの自己へ戻されること。しかしこの「ふつうの自己」に戻ることが、全然めでたくない。……だからこそ、このメッセージは前曲の歌詞に対する正確な診断と処方なんだけど。
《強さも脆さも 誰よりもそう知っているよ》と特権的な認識権を開示しながら、《Let Me Set You Free》の宣言に至る。テクストに書き込まれた欲望の構造を正確に見抜いた上で、君はもっと自由に生きるべきだと突きつける。倫理的かつ臨床的な介入と言ってもいい——のだが厄介なことに、『黒色のオーラ』側にとっては、ここにもうひとつ快楽が生まれてしまう。自分自身すら知らない自分の欲望をすべて《おまえ》に完璧に見通されているという、絶対的な知の劣位の気持ちよさが。
***
幸運にも天職と呼べる仕事に就けたなぁと感じることと、仕事したくねえ〜〜〜と思うことは両立する。現在進行中の仕事がダルすぎてまたこういう雑文ばかり書いてしまう…
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213
以前の文章(これとかこれとか)で書こうとして微妙に書けていなかったことを書く。
魔境を悟りと誤認している男について。
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★「黒色のオーラ」歌詞からの引用:
《容赦のない 神の領域へと
行くぜ おまえだけに 逢うために》
《弾け飛ぶ心の“たが” そこにある無我の境地
絶えず夢に 愛に誓う 壊せ見えぬ壁を》
《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に
神に捧げるのだ 全力を》
★『STRENGTH』に載っている公式年表からの引用:
《真田/4歳/坐禅と剣道の朝稽古開始 以降、毎朝4時に起床
幸村、真田/4歳/2人が4歳のときテニスクラブで出会う・ダブルスペアで初勝利》
(同じ4歳の出来事の中で、稽古開始が先、出会いが後、という順序が設定されていることが決定的に重要だろうと思うけど、長くなるのでここではとりあえず深入りしない)
***
【①前置き(無我の境地について)】
まず、「無我の境地」はテニプリの文脈では技術体系の名称。
旧作26巻・34巻からの引用:
《頭で考えて動くのではなく 身体が実際体験した記憶等も含め無意識に反応してしまう いわば己の限界を超えた者のみが辿り着く事のできる場所だ》(222話)
《『無我の境地』は脳からの伝達では無く イメージとして焼き付いたものを身体が直接反応して動いてしまう/本来出来ないものを限界を超えた所でやっているのだ その反動としてもの凄い体力を消耗する ———そして/それは一気に身体に襲い掛かる——》(227話)
《脳裏に焼きついた様々な選手のプレーを 身体が直接反応しランダムに放出することで 予測不能な動きを実現している『無我の境地』——》(301話)
頭で考えるのではなく身体が無意識に反応する、対戦経験のある選手の技を無意識に模倣する——「無我の境地」とは、身体に蓄積された他者の記憶が、自分の身体を通じて再生される状態といえる。
他者と対峙した経験が身体に刻み込まれていて、自我の統御が外れたとき、その刻印が表面に浮かび上がる。つまり無我の境地における身体は、他者の記憶の容器である。自我が消えて自分が空になったとき、残っているのは他者との接触の記録であり、それが自分の身体を動かす。精神分析的にいえば、主体の内部に取り込まれた対象の痕跡——内在化された他者が、自我の防衛が崩壊した瞬間に回帰するという構造。
しかしここが複雑なのだが、楽曲「黒色のオーラ」のモチーフになった作中エピソードでは、技としての無我の境地は——少なくとも明示的には——使われていない。にもかかわらず、歌詞は《無我の境地》を参照している。
一つの素直な解釈は、歌詞が描いている《無我の境地》は実際の試合の記述ではなく、試合の経験を通じて話者の内部で起こった心理的な事態の記述だというもの。実際のコート上では無我の境地は発動していない。しかし話者の内面においては、《おまえ》との対峙の中で箍(たが)が弾け飛び、自我の制御が崩壊する事態が起こっている。技としては発動していないが、心理的な構造としては経験されている。
技は主体が意志的に、あるいは身体的な条件が揃ったときに、能動的に発動させるものである。しかし、《そこにある無我の境地》の《そこにある》という表現には主体の能動性がまったくない。
技の覚醒や行使の記述であれば、「入る」「到達する」「発動する」といった動的な語彙が自然だろう。主体が何かに到達する、何かが始動する、という動きを含む表現。
しかしテクストは《ある》と言っている。「ある」は存在を示す最も静的な動詞であり、主体の行為でも状態変化でもなく、何かがそこに存在しているという事実の記述である。ここでは、無我の境地は到達するものでも発動するものでもない。箍の下にもともと存在していたものが、箍が外れたことで露出した、という受動的な発見。《そこにある》という表現は、この発見を記述している。
また、技としての無我の境地は、身体能力の上昇や他者の技の模倣という形で、外部から観察可能な現象として現れる。しかしこの歌詞が描いている箍の崩壊と無我は、外部からは観察できない内的な崩壊であり、技とは別の何かである。テクストはそれを技の語彙で理解しようとしているけれど、実際にはそれは技ではなく、《おまえ》との関係が引き起こした自我の構造的な変容として読める。
前置き終わり 以下本題。
***
【②本題(魔境を悟りと誤認している男について)】
(1)坐禅と剣道による修行の体系
冒頭で引いた公式年表から再び引用:
《真田/4歳/坐禅と剣道の朝稽古開始 以降、毎朝4時に起床》
4歳の子供が毎朝4時に起きるということ。眠い身体を起こし、坐禅を組み、動かずに座り、剣道の稽古をする。これは4歳の子供にとって、自分の身体の欲求——眠りたい、遊びたい、自由でいたい——を体系的に抑圧することの開始である。
この修行体系は、禅仏教と儒教という二つの精神的伝統に根ざしている。
禅の側からいえば、坐禅が目指すのは無我の境地である。身体を不動に保ち、呼吸を整え、浮かんでくる思考を追わず追い払いもせず、注意をどこにも焦点させない。その実践の果てに、主体と客体の区別が消え、自己と世界の境界が溶解する。この境地にはいかなる対象もない。何かを見る、何かを得る、何かに到達するという構造そのものが消えている。特定の対象に心が向かった瞬間、それは執着であり妄念であり、悟りからの逸脱として厳に戒められる。
儒教の側からいえば、剣道の精神修養の基盤にあるのは克己——己に克つこと。自らの欲望・感情・衝動を理性と意志の力で統御し、常に正しい姿勢と心の在り方を保つ。修養とは、自我の中の理性的な部分が感性的な部分を制御する秩序を確立することであり、それは自我の消去ではなく自我の強化の方向に働く。私欲に打ち克つためには、打ち克つ主体としての意志が強くなければならない。
この二つの伝統が、4歳の子供の中で、一体化した修行体系を形成していく。坐禅で心を鍛え、剣道で心身を鍛える。両者に共通するのは、厳格な自己規律の実践である。
ところが、両者の間にはそもそも内在的な緊張がある。禅が自我という枠組みそのものの手放しを志向するのに対して、儒教的克己は自我による自我の統御を志向する。目指す方向が異なる。
しかし、日々の修行という実践のレベルでは——毎朝4時に起き、坐禅を組み、剣を振る——両者は矛盾なく共存できる。なぜなら、どちらも日々の修行においては自己規律の形をとるから。禅の修行もまた、座り方、呼吸の仕方、注意の向け方について厳格な規律を要求する。克己と無我は最終的な到達点としては異なるものだが、そこに至る実践においては、ともに自己規律として現れる。
(2)修行体系と歌詞の描写の乖離
楽曲「黒色のオーラ」の歌詞が描いている運動は、上述の修行体系をほぼ完全に裏切る構造になっている。
まず、自我の統御ではなく自我の崩壊が起こっている。《弾け飛ぶ心の“たが”》は、自我の防衛機構を外から締めつけて器の形を保っている箍が、内側からの圧力に耐えきれずに破壊されるという、物理的に精確なイメージである。
箍が弾け飛ぶ原因は外部からの攻撃ではなく内圧であり、箍が閉じ込めていたもの自身の力が箍を破壊する。克己の修行とは、まさにこの箍を強化すること——欲望や衝動という内圧を、意志と規律の箍で封じ込めておく営みである……はずだった。その箍が弾け飛ぶということは、克己そのものの破綻を意味する。
次に、禅的な無我ではなく、対象への執着による自我の爆発的崩壊が起こっている。禅における無我は、あらゆる対象への執着を放下した先に、主客の分別そのものが消える境地である。しかしこのテクストにおける《無我》は、《おまえだけに 逢うために》という特定の対象への激しい志向性に駆動されている。さらには《絶えず夢に 愛に誓う》という、執着の全面的な肯定がある。
注意がどこにも焦点を結ばないのが禅の無我であるとすれば、テクストの注意は《おまえだけに》完全に焦点を結んでいる。禅的な意味での無我とは正反対の、対象への全面的な没入による自我の消失。
さらに、禅や儒教の修行体系には存在しない《神》という語彙が出現している。《神の領域》へ赴き、《神に捧げる》。
禅仏教には、捧げる対象としての超越的な人格神は存在しない。儒教にもそのような構造はない。《神に捧げるのだ 全力を》という行為は、彼の精神的伝統のいずれによっても正当化できない。
そして《おまえ》すなわち幸村が「神の子」というキリスト教的なコノテーションを持つ異名で呼ばれる存在であることが、この語彙の出現を偶然ではなくテクストの内的な論理にしている。ここでは真田の語彙体系が、幸村という存在によって内側から変質させられている。
さらに、このテクストが実際に描いている構造は、キリスト教神秘主義における「魂の暗夜」およびエクスタシーの構造と相似である。神の領域に入り、感覚が奪い取られ、自我が解体され、光が消え去り、神に捧げる——これは神秘主義において魂が神に到達するために経験する、全的な剥奪の過程と、驚くほど正確に対応している。
なぜ剥奪が起こるか——人間の有限な能力では無限の存在である神を把握することはできないから、人間の側の感覚や知性がすべて停止しなければならない。光が消えるのは神が不在だからではなく、神の光が強すぎて人間の感覚がそれを光として処理できないからである。だから《光が消え去》ったとき——五感と精神のすべてが剥奪され、すべての能力が無になったとき——初めて神がそこにいる。空になった者だけが、《神に捧げる》ことができる。《絶望の裏側》に合一の甘美さがある。
ところが、禅の伝統においてこの種の経験は「魔境」と呼ばれるものである。坐禅の修行中に神秘的なヴィジョンを見たり、法悦を経験したり、超越的な存在との合一感を覚えたりすることは、悟りへの到達ではなく修行上の危険な逸脱として退けられる。それは執着の一形態——しかも最も危険な形態——であり、師はそれを即座に否定する。「仏に逢うては仏を殺せ」という臨済の言葉が端的に示しているように、禅においては超越的な存在への帰依そのものが、打破すべき迷妄である。
しかしテクストはこの禁忌を描いてしまっている。しかも、曲の中で最も美しいクライマックス——絶頂——の瞬間として。
《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に
神に捧げるのだ 全力を》
精神分析的に言い直せば、これは原初的なマゾヒズムの享楽の構造でもある。自我の防衛が破壊され、快感原則の彼岸に達し、自己の解体そのものが享楽の源泉となる。苦痛と快楽が区別できなくなり、受動性が極限に達し、自己の全体が特定の他者に明け渡される。神による恩寵と加害が区別できないように、破壊と恍惚が同じ一つの瞬間になっている。
(3)話者の無自覚
このテクストの最も決定的な特徴は、以上の構造のすべてを話者自身が認識していないという、一種の無垢さである。
彼は自分に起こっていることを、自分の修行体系の語彙で理解している。自我の崩壊を《無我の境地》と呼び、修行の成就として認識している。しかし実際に起こっているのは、修行が目指す禅的な無我とは正反対の、特定の対象への——《神》であり《おまえ》への——執着による自我の崩壊である。
前述の通り、禅の伝統においてこの状態は「魔境」とされる。なぜなら、この種の体験はすべて「何かを経験している主体」を前提としているから。恍惚を感じている「私」がいる限り、主客の区別は消えていない。むしろ強烈な体験によって「私」の感覚が強化されている。「悟りを得た」と感じること自体が悟りから最も遠い状態であるように、話者は「自分が無我の境地にある」と感じているまさにそのことによって、禅的な意味での無我からは最も遠い場所にいる。
また、テクストの表層を構成する語彙はその多くが能動的で闘争的である。《行くぜ》《底力》《来いよ》《全力》——しかしこれらの語彙が実際に記述しているのは、力が奪い取られ、底が抜け、自我が開かれ、すべてがこぼれ落ちて空になったものを神に捧げるという、徹底的に受動的なプロセスである。
《底力の さらに底が開く》は力の上昇ではなく下方への開口であり、その直後に続く《来いよ おまえの手で 確かめろ》は闘いの挑発の形をとった、自己の最深部の開口に相手の手を求める懇願であり、《神に捧げるのだ 全力を》は剥奪の只中での全面的な明け渡しである。《容赦のない 神の領域へと/行くぜ おまえだけに 逢うために》は、容赦なく打ちのめされると知ってなお《おまえだけ》との邂逅を欲するという、ほとんど切迫した親密さへの希求であり、この2行が冒頭に置かれることで、この曲の物語全体が一つの逢瀬として構造化されている。能動的な語彙は、受動的な解体と《おまえ》への欲望へ向かって自らを駆り立てるために使われている。
このテクストは自分が何を語っているかを知らない。挑戦だと思っているものが渇望でもあり、闘いだと思っているものが降伏でもあり、修行の成就だと思っているものが修行体系の崩壊でもあり、克己だと思っているものが克己の破綻でもあり、無我の境地だと思っているものが魔境でもあり、闘志だと思っているものがエクスタシーでもあることを、知らない。話者の語彙体系そのものが、彼に起こっていることを隠蔽する装置として機能している。
そしてこの無自覚こそが、テクストのエロティシズムの核心を成している。話者は自分の経験を、修行の達成として理解している。しかし実際に起こっていることは、修行の体系そのものの転覆である。儒教が目指す私欲の打破ではなく、坐禅が目指す透明な無執着でもなく、《おまえだけに》という激烈な執着の中での自我の溶解。悟りへの到達ではなく、最も禁じられた魔境への堕落。しかし話者の中にはその区別が存在しない。
《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に
神に捧げるのだ 全力を》
これは失いつつある自分自身を、自分のものとして保持することをやめて、そのまま差し出すという、明け渡しの極致。《神に捧げるのだ 全力を》と禅の修行者が言うことの、逸脱の深さ——その逸脱を逸脱と知らないからこそ、一切の逡巡なく、全身で相手に向かっていくことができる。魔境を悟りと誤認しているから恍惚の中にいることができる。自分がやっていることの本当の意味を知ってしまったら、彼は立ち上がれなくなるのだから。
******
……なんてことを長々と言語化するまでもなく、この曲の教会音楽的なサウンドがまず聴覚的なレベルで闘争の語彙を裏切っているんですよね。
2番サビ後からラスサビまでの展開とか、原始宗教的な意味での「飛翔」感がすごい。
礼拝曲のJロックアレンジみたいな…。ヘ短調ということもあり、ブルックナーの「ミサ曲第3番ヘ短調」に近い雰囲気を感じる。
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210
素朴な所感のメモ
《Let Me Set You Free》——相手を自由にしたいと願うこと自体が、相手への執着を証明している。愛していなければ、自由にしたいとは思わない。この文の根源的な葛藤の美しさ。
また、「I will set you free」は一方的な意志の表明であり、相手を縛る命令として機能しうる。解放するという宣言によって束縛を行ってしまう。この矛盾があるから「I will」は使えない。したがって、相手の自由意思に判断を委ねる——少なくとも文法上は——形式の《Let Me》になる。
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209
「for Yourself」はいわゆるブックエンド構造。冒頭の2行(と1・2番サビの《You Go Further Away》)はラスサビより未来の視点で、1番から始まる試合の場面は回想。だから、実際の時系列に沿って歌詞を並べるとラストはこうなる▼
[We Go Further Away
俺もまた “その先”を探し続ける
去りゆく背を見つめて 誓うよ
Let Me Set You Free
それでいい これからは自分の為に
歩め Living for Yourself
You Go Further Away
俺たちに 遠慮とか容赦なんかは 必要ないだろ?]
切なさが増すなぁ…。
《Let Me Set You Free》——相手を手放すために《遠慮とか容赦》をしなかったことを振り返りながら、《必要ないだろ?》と——痛みを伴う別れを、だけどこの決断は正しかったはずなんだと自分に言い聞かせている響き。
《You Go Further Away》が《We Go Further Away》に変わる物語……と見せかけて実は逆で、《We Go Further Away》の別離が果たされてしまった後に、話者の脳内で《You Go Further Away》の残響が繰り返されている物語。
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206
裸体の官能と衣服が裂ける瞬間の官能…という比喩を書いたときは全然意識してなかったけど、そういえば作中では、《不意にボールが 額かすめて世界を切り裂いた》の場面で文字通り被服(ヘアバンド)が裂かれてたな。しかも歌詞ではそれが《世界を切り裂いた》と、尋常ではないスケールで認識に亀裂を入れている。
あのヘアバンドって競技中に身に着けているもので、つまり公的な「選手」としての標識のようなもの。打球がそれを裂くことで、文字通り強引に脱がせつつ、同時に競技者ではなく私的な個人の位置に下ろす。物理的なレベルと象徴的なレベルで、二重に裸にしている。
●
202
「黒色のオーラ」の歌詞の美しさは無自覚ゆえの全面的な露出の美しさであり、「for Yourself」の美しさは、制御しようとすることによってかえって制御しきれないものの存在が浮かび上がる、その逆説の美しさ……と以前の投稿で書いたけど、これはもっと端的に表現すると、裸体の官能と衣服が裂ける瞬間の官能、だろうか。
私はやはりどちらかというと…裸体の官能のほうが好みだな。不意をつかれて服が裂かれてしまうスリルも気持ちいいけど、自ら脱いで差し出したいと思える相手がいる恍惚はもっと気持ちいい。良し悪しではなく純粋に好みの問題として。
そういう好みなので、前者のテクストはかなり体感的に「わかる」が、後者はちょっと頭を使わないと読めないようなところがある。
●
200
「for Yourself」の歌詞の読み方がようやく少しつかめてきた…かもしれない
根本的には臆病で照れ屋な人が、だからこそそれを隠して認識の優位を保とうとするものの、ところどころで綻びが生じてしまっている曲…みたいな。
***
《久しぶりだね こんなふうに二人で向き合うのは》
《限界を超えて なお挑み続ける
そんな友だからこそ 迷わない》
《信頼も 葛藤も きっとお互い
言葉にはしないけど 感じるよ》
《We Go Further Away
俺もまた “その先”を探し続ける》
《こんなふうに》——名指しを避けながら、名指さないものがあることは指し示している。
《迷わない》——迷わないと言いながら、「何を」迷わないのかは明示しない。
《言葉にはしないけど》——言葉にしないと言いながら、言葉にしないということを言葉にしている。
《“その先”》——引用符によって「ここに特別な意味がある」と標識しながら、その意味を開示しない。
これらに共通するのは、沈黙を言語化するという逆説的な操作である。何かがあることだけを示して、その中身は空白にする。
真に言葉にしない人間は、何も言わない。黙る。しかしこのテクストは黙らない。言葉にしないということを語る。これは沈黙ではなく、沈黙についての発話。そしてこの構造自体が、話者の認識の過剰さを示している。二人の間にある何かを認識しており、それを言語化しないという選択をしており、その選択自体を言語化するだけの自意識がある——三重の認識。
「黒色のオーラ」にはこの構造がまったくない。言葉にしないという選択をしていない。言葉にするべきかどうかという判断の次元自体が存在しない。ただ言う。《おまえだけに 逢うために》と言い、《愛に誓う》と言い、《神に捧げるのだ 全力を》と言う。そこには沈黙がない——それ以前に、沈黙についての意識そのものがない。言語化するかしないかを選択する主体がいない。だから無自覚で、だから無防備で、だからすべてが出てしまう。
しかし「for Yourself」には、言語化するかしないかの選択を行う主体がいる。そしてその主体は繰り返し「しない」を選ぶ。同時にその「しない」という選択自体を言語の中に刻んでしまう。
《信頼も 葛藤も きっとお互い/言葉にはしないけど 感じるよ》——この一文は、《信頼》と《葛藤》の存在を認め、それが相互的であるだろうことを認め、それを言語化しないという選択を表明し、しかし感じていることだけは伝える、という複数の操作を一文の中で同時に行っている。言葉にしないと言いながら、《信頼》と《葛藤》という名前はすでに出してしまっている。完全な沈黙であれば名前すら出ない。この曲の沈黙は、輪郭だけを描いて中身を空白にするような沈黙。
《久しぶりだね こんなふうに二人で向き合うのは》の《こんなふうに》は、空白を指差す指である。中身は言わない。しかし指がそこを差しているから、何かがそこにあることは見える。完全に隠すなら指差しもしない。でもこのテクストは隠しきっていない。隠しているということが見える形で隠す。
《俺もまた “その先”を探し続ける》にいたっては、《その先》という語自体が、定義上、現在の地点から見て到達していない場所を意味する。まだ見えていない場所、まだ言語化できない場所。《その先》という語の意味内容そのものが、言語化不可能性を含んでいる。言語化できないものを指すために、言語化できなさを意味する語を選び、さらにそこに引用符を付けて特殊な意味があることだけを標識している。三重に回避しながら三重に指し示している。
《そんな友だからこそ 迷わない》の目的語の不在は、通常であれば文脈から自明だから省略されていると読まれる。しかしこのテクストにおけるこの不在は、他の回避の構造と並べたとき、自明さによる省略というよりも、言語化の回避のパターンの一つとして浮かび上がってくる。
そして、《迷わない》は否定形——肯定文で自分の意志を語るのではなく、迷いの否定として語っている。「こうする」ではなく「迷わない」。これは、迷いの可能性が先に存在していることを前提としている。迷いうるものがあるからこそ、迷わないことを選ぶ。では何について迷いうるのか。テクストはそれを言わない。しかし「迷い」の存在を否定形の中で認めてしまっている。《言葉にはしないけど 感じるよ》が言葉にしないものの存在を認めるように、《迷わない》は迷いの可能性の存在を認めている。
この構造はテクストに独特の緊張を生んでいる。言語化されないものの輪郭が、言語化の回避そのものによって描かれていく。名指されないものが、名指されないという事実によって存在感を増していく。「言葉にはしない」と言えば言うほど、言葉にされていないものの圧力が高まる。回避が回避の対象の存在を強調するという逆説。
そしてこの逆説の中に、このテクストの美しさの一つの源泉があるのだと思う。「黒色のオーラ」の歌詞の美しさは無自覚ゆえの全面的な露出の美しさであり、「for Yourself」の美しさは、制御しようとすることによってかえって制御しきれないものの存在が浮かび上がる、その逆説の美しさ。隠すことで露わにしてしまう、言わないことで言ってしまう。そしてその構造が最終的に破れるのが《あの時 たった一度だけ/頬に覚えた熱い痛み 生きている証》——輪郭を描いてきた言語が、中身そのものに触れてしまう瞬間。
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199
《信頼も 葛藤も きっとお互い
言葉にはしないけど 感じるよ》
《葛藤》に対して《信頼》が対置されていることに微妙に違和感がある。
葛藤というのは心が引き裂かれるような状態で、そこに至るには、理性だけでは制御しきれない感情的な熱量が必要になる。もっとも自然な対置項はおそらく「愛」だろう。愛ゆえの葛藤、愛と葛藤。この二つは感情の強度において釣り合い、そしてしばしば同一の経験の二つの面である。
「信頼」は関係性を認める語ではあるけれど、「愛」が持つような制御不能な切実さを持たない。意思的に構築し、判断に基づいて維持し、場合によっては撤回できる、ある意味で管理可能な感情。だから、理性では制御しきれない感情によって引き裂かれる「葛藤」と対置したときに、情緒的な強度の不足が二語間の齟齬として表れる。
Google完全一致検索でのヒット数:
“愛と葛藤” 約 348,000 件
“友情と葛藤” 約 166,000 件
“恋と葛藤” 約 119,000 件
“恋愛と葛藤” 約 73,100 件
“絆と葛藤” 約 71,200 件
“欲望と葛藤” 約 50,200 件
“愛情と葛藤” 約 43,400 件
“信頼と葛藤” 約 20,100 件
“執着と葛藤” 約 15,700 件
「黒色のオーラ」のほうでは何の留保もなく「愛」が使われてるんだから応答もそれでいいじゃん、と思わなくもないけど、そうはなっていないからこそ魅力的な対である。
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198
私自身の快楽の回路として、自分にとって絶対的な特定の他者に対して全存在を投げ出し、その過程で自己が開かれ、壊され、最終的に相手に明け渡される……みたいな、どこまでも一人の相手に「閉じた」構造が気持ちいいから「黒色のオーラ」の歌詞のほうが“性癖に刺さる”んだけど、
相手に対する絶対的な認識の優位や、知的な抑制による自己制御、そしてそれらによる特権的な位置が揺さぶられる/突き崩される瞬間に快楽を覚える人にとっては「for Yourself」の歌詞はたまらないだろうな…と思った。あと、もっとも大切なものを手放すことの痛みそのものを官能として経験する回路がある人。
そして何より、この非対称性が存在していること自体がいちばん美しいと感じる。
全存在を投げ出す者——それを受け取り、見通し、そして手放す者。
自分が何を差し出しているか知らない者——差し出されているものの意味を知っている者。
無自覚と過剰な認識、全面的な露出と抑制的な回避、語彙の圧縮と語彙の展開。
両者の間に完全な対称性がなく、欲望の構造が異なっていて、しかしその異なる構造が噛み合っているという関係性の中に、互いの欲望が相手の欲望を必要とする相互依存がある。どちらか一方の欲望だけでは成立しない。この非対称的な噛み合いそのものが、ひとつの完結したエロティックな円環を成している。
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195
《容赦のない 神の領域へと
行くぜ おまえだけに 逢うために》
《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に
神に捧げるのだ 全力を》
作中では「神の子」なのに、この曲ではどうして「神」なのか?という疑問に対する、もっとも素朴な仮説……神の子は人間と神のあいだを媒介する媒介者だが、この曲において《おまえ》は媒介者ではなく、到達点そのものだから。
キリスト教的な構造の中で「神の子」は父なる神そのものではなく、神の言葉を人間に伝え、人間を神へと導く存在。神の子は通過点であり、その先に到達点としての父なる神がいる。つまり「神の子」という呼称は、その向こう側にさらに到達すべき何かがあるという構造を含んでいる。
しかしこの曲の歌詞の中には、《おまえ》の向こう側にある超越的な目標への言及が一切ない。《おまえだけに 逢うために》の《だけに》が示すように、《おまえ》は手段ではなく目的そのもの。逢う相手であり、赴く先であり、捧げる先そのものであって、《おまえ》を通じてどこかへ至るという構造にはなっていない。《おまえ》を倒すことで本当の目的地(栄光、高み、テニスの極致、その彼方にあるもの、何であれ)に至る、という運動ではない。
彼は高みへの道程ではなく、欲望の最終的な宛先。だから「の子」を剥ぎ取って、「神」そのものの位置に押し上げている。
***
いわゆるネタソン(これとか)以外で、他のキャラの視点から幸村くんを「神」と名指した曲って他に存在するんだろうか…いや私が知らないだけで存在するのかもしれないけど。
「待ってたぜ」の歌詞を見ると、友達に宛てる曲の温度感って普通はこういうのだよなぁ…と思う。当たり前だけど相手を一人の人間として、さらにいえば一人の脆弱な少年として、水平的な愛の眼差しをもって描いている。対して「黒色のオーラ」は垂直的かつ聖的すぎて怖い。
***
原作での五感剥奪の論理(どんな場面でも冷静に完璧なテニスをすることで相手が萎縮しイップスに陥って自滅していく)とは構造的に異なるものの、この歌詞を読むと神秘主義の「Dark Night of the Soul」(日本語ではおそらく「魂の暗夜」などの訳)を思い出さずにはいられない。
神による恩寵の業としての感覚剥奪。まず「Dark Night of the Senses(感覚の暗夜)」で五感を通じた認識が無効化され、感覚的な慰めへの執着から解放される。次に「Dark Night of the Spirit(精神の暗夜)」で、知性、記憶、意思といった精神的な能力が浄化される。
ここでは恩寵は加害と区別できない。剥奪の過程は、当事者にとっては純粋な苦痛として経験される。自分が頼りにしていたものがすべて奪われ、何も見えず、何も感じられず、何も理解できない暗闇の中に置かれる。しかしこの絶望と恐怖の只中にこそ、実は神がもっとも近くにいる。暗いのは神が不在だからではなく、神の光があまりにも強すぎて、人間の感覚がそれを光として処理できないからだとされる。
重要なのはこの剥奪の論理——人間の感覚や知性は神を把握するには根本的に不十分で、有限な能力で無限の存在を捉えることはできないから、神に到達するためには人間の側の有限な把握能力がすべて停止しなければならない……というもの。見ることでは神は見えない、聴くことでは神は聴こえない、知ることでは神は知れない。だからすべての能力が無になったとき、初めて神がそこにいる。光が消えて初めて神に逢い、すべてを捧げ、合一することが可能になる。歌詞の言葉を借りるなら《絶望の裏側》に、全的な剥奪を経た後の合一の甘美さ(「霊的婚姻」)がある。
《非情なる本気こそが 俺たちの勇気だから
絶望さえ 恐怖さえも 世界の終わりじゃない
栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に
神に捧げるのだ 全力を》
このあたりのフレーズと響き合いすぎて怖いんですよ…。
なお「怖い」という表現は、それこそが魅力の以下同文
あと以前も少し書いたように、「神」的なものへの執着って禅の世界においては危険思想(魔境)なわけで……自分が魔境に堕ちていることを、悟り(無我の境地)に近づいていると誤認しているところにも、この歌詞の美しさがある。無自覚なまま破滅と恍惚が同じ一つの瞬間になっている。
***
自分自身の没入的な愛着をもって好きなキャラクターの曲だって歌詞にここまで執心した経験はないのに、なんであの2曲にはここまで惹かれているのか、いまだ理由を言語化しきれない。テクストとして楽しすぎる…
●
194
「黒色のオーラ」の歌詞全体。自分が何を言っているか知らないからこそ、欲望がまったく遮蔽されずにテクストの表面にそのまま現れている…という、一種の無垢さがすごい。
もしそこに書き込まれている欲望の強度を自覚していたら、羞恥や逡巡が介入して言葉は間接的になり、欲望は修辞の奥に隠されるだろう。でもこの曲にはそれがない。どこまでも無自覚だから、とんでもなく大胆な詞を堂々と歌える。
そして歌唱がそれを裏づけている。きわめて力強く実直に、一音一音をはっきりと響かせる歌い方が、この無自覚の音声的な表れとして聴こえる。ためらいがない、含みがない、二重の意味に気づいている者の屈折がない——自分が闘士として全力で闘いに向かっていると完全に信じている者の声でしかない。
テクストが過剰な感情を含むとき、話者の側になんらかの自意識があれば、聴き手はその自意識を足がかりにして距離を取ることができる。照れや韜晦やアイロニーは、聴き手に「これは過剰であると話者自身も知っている」というシグナルを送り、それが感情の強度を緩和する緩衝材になる。
しかしこの曲にはその種の緩衝材が一切存在せず、その言葉の意味を受け止める場所は聴き手の中にしか残されていない。揺るぎない声によって叩きつけられる感情の過剰さから、聴き手は逃れられない。無防備さそのものが、一種の暴力的な親密さとして聴き手に作用する。
端的にいうと:赤裸々すぎるせいで聴いていて照れくさい。
「for Yourself」の歌詞や声はこれとは全く異なっていて、自分の感情を客観的に分節化できている人の言葉であり、語の選択にも部分的に照れが窺える(《信頼も 葛藤も》の《信頼》とか)。
だからこそCメロだけ無防備になるのが効くのだと思う。
●
193
メモ:
「黒色のオーラ」の歌詞における二人称は「おまえ」で、原作の「お前」よりも親密さが増している。
対して「for Yourself」では「君」で、原作の「キミ」より距離ができている。(CDの帯では原作準拠の「キミ」だった▼)
▼歌詞カードではちゃんと《非情》。しばらく歌詞サイトの誤字(「非常」)を公式の誤字だと思っててすみませんでした…。
あと《弾け飛ぶ心の“たが”》の後にアキがある。
●
182
《久しぶりだね こんなふうに二人で向き合うのは》
▶︎「向き合う」であって、「向かい合う」ではない。
《あの日があるから今があるといつか振り向くなら
それは今日さ そうだろ 振り切るぜ》
▶︎「振り向く」であって、「振り返る」ではない。
後者の用法は珍しい。ふつう過去は「振り返る」ものであって、「振り向く」はコロケーションとして異質。
Google完全一致検索では、
“過去を振り返る” 約 1,560,000 件
“過去を振り向く” 約 21,100 件
“あの日を振り返る” 約 173,000 件
“あの日を振り向く” 0 件(完全一致なし)
“いつか振り返る” 約 15,100 件
“いつか振り向く” 約 1,190 件
ここではとりあえず、コノテーションの差異を整理しておく。
【向き合う】
物理的な意味でも使えるが、それ以上に精神的・内面的に真正面から対峙するというニュアンスが強い。「問題と向き合う」「自分自身と向き合う」「死と向き合う」のように、対象から逃げずに正面から受け止めようとする覚悟や姿勢を含意する。「向かい合う」に比べて、主体の内面的な関与・コミットメントが強く感じられる。
【向かい合う】
主に空間的・物理的な位置関係を客観的に描写する語。人と人(あるいはモノとモノ)が互いに正面を向いている「構図」そのものに焦点があり、「二人はテーブルを挟んで向かい合って座った」のように使う。比喩的にも使えるが、基本的には物理的な配置のイメージが強く残る。
【振り向く】
身体(特に顔や上半身)の向きを変えるという動作そのものに焦点がある。「名前を呼ばれて振り向いた」のように、刺激に反応して方向を変える瞬間的な動作。基本的に物理的な動作を指すが、「興味・関心を寄せる」という比喩的な意味もある。「彼を振り向かせたい(=自分に関心を持ってもらいたい)」のような恋愛表現が典型的。
【振り返る】
物理的に後ろを見る動作も表すが、それに加えて「過去を振り返る」「人生を振り返る」のように、時間軸を遡って回想・内省するという比喩的用法が深く定着している。「振り向く」が瞬間的な方向転換であるのに対して、「振り返る」にはやや持続的で内省的なニュアンスがあり、過ぎ去ったものをもう一度見つめ直すという含みがある。