◆このページは:無為な雑録です。(説明)
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以前の文章(これとかこれとか)で書こうとして微妙に書けていなかったことを書く。
魔境を悟りと誤認している男について。


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★「黒色のオーラ」歌詞からの引用:

《容赦のない 神の領域へと
 行くぜ おまえだけに 逢うために》

《弾け飛ぶ心の“たが” そこにある無我の境地
 絶えず夢に 愛に誓う 壊せ見えぬ壁を》

《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に
 神に捧げるのだ 全力を》


★『STRENGTH』に載っている公式年表からの引用:

《真田/4歳/坐禅と剣道の朝稽古開始 以降、毎朝4時に起床
 幸村、真田/4歳/2人が4歳のときテニスクラブで出会う・ダブルスペアで初勝利》

(同じ4歳の出来事の中で、稽古開始が先、出会いが後、という順序が設定されていることが決定的に重要だろうと思うけど、長くなるのでここではとりあえず深入りしない)


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【①前置き(無我の境地について)】

まず、「無我の境地」はテニプリの文脈では技術体系の名称。

旧作26巻・34巻からの引用:

《頭で考えて動くのではなく 身体が実際体験した記憶等も含め無意識に反応してしまう いわば己の限界を超えた者のみが辿り着く事のできる場所だ》(222話)

《『無我の境地』は脳からの伝達では無く イメージとして焼き付いたものを身体が直接反応して動いてしまう/本来出来ないものを限界を超えた所でやっているのだ その反動としてもの凄い体力を消耗する ———そして/それは一気に身体に襲い掛かる——》(227話)

《脳裏に焼きついた様々な選手のプレーを 身体が直接反応しランダムに放出することで 予測不能な動きを実現している『無我の境地』——》(301話)

頭で考えるのではなく身体が無意識に反応する、対戦経験のある選手の技を無意識に模倣する——「無我の境地」とは、身体に蓄積された他者の記憶が、自分の身体を通じて再生される状態といえる。

他者と対峙した経験が身体に刻み込まれていて、自我の統御が外れたとき、その刻印が表面に浮かび上がる。つまり無我の境地における身体は、他者の記憶の容器である。自我が消えて自分が空になったとき、残っているのは他者との接触の記録であり、それが自分の身体を動かす。精神分析的にいえば、主体の内部に取り込まれた対象の痕跡——内在化された他者が、自我の防衛が崩壊した瞬間に回帰するという構造。

しかしここが複雑なのだが、楽曲「黒色のオーラ」のモチーフになった作中エピソードでは、技としての無我の境地は——少なくとも明示的には——使われていない。にもかかわらず、歌詞は《無我の境地》を参照している。

一つの素直な解釈は、歌詞が描いている《無我の境地》は実際の試合の記述ではなく、試合の経験を通じて話者の内部で起こった心理的な事態の記述だというもの。実際のコート上では無我の境地は発動していない。しかし話者の内面においては、《おまえ》との対峙の中で箍(たが)が弾け飛び、自我の制御が崩壊する事態が起こっている。技としては発動していないが、心理的な構造としては経験されている。

技は主体が意志的に、あるいは身体的な条件が揃ったときに、能動的に発動させるものである。しかし、《そこにある無我の境地》の《そこにある》という表現には主体の能動性がまったくない。

技の覚醒や行使の記述であれば、「入る」「到達する」「発動する」といった動的な語彙が自然だろう。主体が何かに到達する、何かが始動する、という動きを含む表現。

しかしテクストは《ある》と言っている。「ある」は存在を示す最も静的な動詞であり、主体の行為でも状態変化でもなく、何かがそこに存在しているという事実の記述である。ここでは、無我の境地は到達するものでも発動するものでもない。箍の下にもともと存在していたものが、箍が外れたことで露出した、という受動的な発見。《そこにある》という表現は、この発見を記述している。

また、技としての無我の境地は、身体能力の上昇や他者の技の模倣という形で、外部から観察可能な現象として現れる。しかしこの歌詞が描いている箍の崩壊と無我は、外部からは観察できない内的な崩壊であり、技とは別の何かである。テクストはそれを技の語彙で理解しようとしているけれど、実際にはそれは技ではなく、《おまえ》との関係が引き起こした自我の構造的な変容として読める。

前置き終わり 以下本題。


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【②本題(魔境を悟りと誤認している男について)】


(1)坐禅と剣道による修行の体系

冒頭で引いた公式年表から再び引用:
《真田/4歳/坐禅と剣道の朝稽古開始 以降、毎朝4時に起床》

4歳の子供が毎朝4時に起きるということ。眠い身体を起こし、坐禅を組み、動かずに座り、剣道の稽古をする。これは4歳の子供にとって、自分の身体の欲求——眠りたい、遊びたい、自由でいたい——を体系的に抑圧することの開始である。

この修行体系は、禅仏教と儒教という二つの精神的伝統に根ざしている。

禅の側からいえば、坐禅が目指すのは無我の境地である。身体を不動に保ち、呼吸を整え、浮かんでくる思考を追わず追い払いもせず、注意をどこにも焦点させない。その実践の果てに、主体と客体の区別が消え、自己と世界の境界が溶解する。この境地にはいかなる対象もない。何かを見る、何かを得る、何かに到達するという構造そのものが消えている。特定の対象に心が向かった瞬間、それは執着であり妄念であり、悟りからの逸脱として厳に戒められる。

儒教の側からいえば、剣道の精神修養の基盤にあるのは克己——己に克つこと。自らの欲望・感情・衝動を理性と意志の力で統御し、常に正しい姿勢と心の在り方を保つ。修養とは、自我の中の理性的な部分が感性的な部分を制御する秩序を確立することであり、それは自我の消去ではなく自我の強化の方向に働く。私欲に打ち克つためには、打ち克つ主体としての意志が強くなければならない。

この二つの伝統が、4歳の子供の中で、一体化した修行体系を形成していく。坐禅で心を鍛え、剣道で心身を鍛える。両者に共通するのは、厳格な自己規律の実践である。

ところが、両者の間にはそもそも内在的な緊張がある。禅が自我という枠組みそのものの手放しを志向するのに対して、儒教的克己は自我による自我の統御を志向する。目指す方向が異なる。

しかし、日々の修行という実践のレベルでは——毎朝4時に起き、坐禅を組み、剣を振る——両者は矛盾なく共存できる。なぜなら、どちらも日々の修行においては自己規律の形をとるから。禅の修行もまた、座り方、呼吸の仕方、注意の向け方について厳格な規律を要求する。克己と無我は最終的な到達点としては異なるものだが、そこに至る実践においては、ともに自己規律として現れる。


(2)修行体系と歌詞の描写の乖離

楽曲「黒色のオーラ」の歌詞が描いている運動は、上述の修行体系をほぼ完全に裏切る構造になっている。

まず、自我の統御ではなく自我の崩壊が起こっている。《弾け飛ぶ心の“たが”》は、自我の防衛機構を外から締めつけて器の形を保っている箍が、内側からの圧力に耐えきれずに破壊されるという、物理的に精確なイメージである。

箍が弾け飛ぶ原因は外部からの攻撃ではなく内圧であり、箍が閉じ込めていたもの自身の力が箍を破壊する。克己の修行とは、まさにこの箍を強化すること——欲望や衝動という内圧を、意志と規律の箍で封じ込めておく営みである……はずだった。その箍が弾け飛ぶということは、克己そのものの破綻を意味する。

次に、禅的な無我ではなく、対象への執着による自我の爆発的崩壊が起こっている。禅における無我は、あらゆる対象への執着を放下した先に、主客の分別そのものが消える境地である。しかしこのテクストにおける《無我》は、《おまえだけに 逢うために》という特定の対象への激しい志向性に駆動されている。さらには《絶えず夢に 愛に誓う》という、執着の全面的な肯定がある。

注意がどこにも焦点を結ばないのが禅の無我であるとすれば、テクストの注意は《おまえだけに》完全に焦点を結んでいる。禅的な意味での無我とは正反対の、対象への全面的な没入による自我の消失。


さらに、禅や儒教の修行体系には存在しない《神》という語彙が出現している。《神の領域》へ赴き、《神に捧げる》。

禅仏教には、捧げる対象としての超越的な人格神は存在しない。儒教にもそのような構造はない。《神に捧げるのだ 全力を》という行為は、彼の精神的伝統のいずれによっても正当化できない。

そして《おまえ》すなわち幸村が「神の子」というキリスト教的なコノテーションを持つ異名で呼ばれる存在であることが、この語彙の出現を偶然ではなくテクストの内的な論理にしている。ここでは真田の語彙体系が、幸村という存在によって内側から変質させられている。

さらに、このテクストが実際に描いている構造は、キリスト教神秘主義における「魂の暗夜」およびエクスタシーの構造と相似である。神の領域に入り、感覚が奪い取られ、自我が解体され、光が消え去り、神に捧げる——これは神秘主義において魂が神に到達するために経験する、全的な剥奪の過程と、驚くほど正確に対応している。

なぜ剥奪が起こるか——人間の有限な能力では無限の存在である神を把握することはできないから、人間の側の感覚や知性がすべて停止しなければならない。光が消えるのは神が不在だからではなく、神の光が強すぎて人間の感覚がそれを光として処理できないからである。だから《光が消え去》ったとき——五感と精神のすべてが剥奪され、すべての能力が無になったとき——初めて神がそこにいる。空になった者だけが、《神に捧げる》ことができる。《絶望の裏側》に合一の甘美さがある。

ところが、禅の伝統においてこの種の経験は「魔境」と呼ばれるものである。坐禅の修行中に神秘的なヴィジョンを見たり、法悦を経験したり、超越的な存在との合一感を覚えたりすることは、悟りへの到達ではなく修行上の危険な逸脱として退けられる。それは執着の一形態——しかも最も危険な形態——であり、師はそれを即座に否定する。「仏に逢うては仏を殺せ」という臨済の言葉が端的に示しているように、禅においては超越的な存在への帰依そのものが、打破すべき迷妄である。

しかしテクストはこの禁忌を描いてしまっている。しかも、曲の中で最も美しいクライマックス——絶頂——の瞬間として。

《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に
 神に捧げるのだ 全力を》


精神分析的に言い直せば、これは原初的なマゾヒズムの享楽の構造でもある。自我の防衛が破壊され、快感原則の彼岸に達し、自己の解体そのものが享楽の源泉となる。苦痛と快楽が区別できなくなり、受動性が極限に達し、自己の全体が特定の他者に明け渡される。神による恩寵と加害が区別できないように、破壊と恍惚が同じ一つの瞬間になっている。


(3)話者の無自覚

このテクストの最も決定的な特徴は、以上の構造のすべてを話者自身が認識していないという、一種の無垢さである。

彼は自分に起こっていることを、自分の修行体系の語彙で理解している。自我の崩壊を《無我の境地》と呼び、修行の成就として認識している。しかし実際に起こっているのは、修行が目指す禅的な無我とは正反対の、特定の対象への——《神》であり《おまえ》への——執着による自我の崩壊である。

前述の通り、禅の伝統においてこの状態は「魔境」とされる。なぜなら、この種の体験はすべて「何かを経験している主体」を前提としているから。恍惚を感じている「私」がいる限り、主客の区別は消えていない。むしろ強烈な体験によって「私」の感覚が強化されている。「悟りを得た」と感じること自体が悟りから最も遠い状態であるように、話者は「自分が無我の境地にある」と感じているまさにそのことによって、禅的な意味での無我からは最も遠い場所にいる。


また、テクストの表層を構成する語彙はその多くが能動的で闘争的である。《行くぜ》《底力》《来いよ》《全力》——しかしこれらの語彙が実際に記述しているのは、力が奪い取られ、底が抜け、自我が開かれ、すべてがこぼれ落ちて空になったものを神に捧げるという、徹底的に受動的なプロセスである。

《底力の さらに底が開く》は力の上昇ではなく下方への開口であり、その直後に続く《来いよ おまえの手で 確かめろ》は闘いの挑発の形をとった、自己の最深部の開口に相手の手を求める懇願であり、《神に捧げるのだ 全力を》は剥奪の只中での全面的な明け渡しである。《容赦のない 神の領域へと/行くぜ おまえだけに 逢うために》は、容赦なく打ちのめされると知ってなお《おまえだけ》との邂逅を欲するという、ほとんど切迫した親密さへの希求であり、この2行が冒頭に置かれることで、この曲の物語全体が一つの逢瀬として構造化されている。能動的な語彙は、受動的な解体と《おまえ》への欲望へ向かって自らを駆り立てるために使われている。

このテクストは自分が何を語っているかを知らない。挑戦だと思っているものが渇望でもあり、闘いだと思っているものが降伏でもあり、修行の成就だと思っているものが修行体系の崩壊でもあり、克己だと思っているものが克己の破綻でもあり、無我の境地だと思っているものが魔境でもあり、闘志だと思っているものがエクスタシーでもあることを、知らない。話者の語彙体系そのものが、彼に起こっていることを隠蔽する装置として機能している。


そしてこの無自覚こそが、テクストのエロティシズムの核心を成している。話者は自分の経験を、修行の達成として理解している。しかし実際に起こっていることは、修行の体系そのものの転覆である。儒教が目指す私欲の打破ではなく、坐禅が目指す透明な無執着でもなく、《おまえだけに》という激烈な執着の中での自我の溶解。悟りへの到達ではなく、最も禁じられた魔境への堕落。しかし話者の中にはその区別が存在しない。

《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に
 神に捧げるのだ 全力を》

これは失いつつある自分自身を、自分のものとして保持することをやめて、そのまま差し出すという、明け渡しの極致。《神に捧げるのだ 全力を》と禅の修行者が言うことの、逸脱の深さ——その逸脱を逸脱と知らないからこそ、一切の逡巡なく、全身で相手に向かっていくことができる。魔境を悟りと誤認しているから恍惚の中にいることができる。自分がやっていることの本当の意味を知ってしまったら、彼は立ち上がれなくなるのだから。


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……なんてことを長々と言語化するまでもなく、この曲の教会音楽的なサウンドがまず聴覚的なレベルで闘争の語彙を裏切っているんですよね。
2番サビ後からラスサビまでの展開とか、原始宗教的な意味での「飛翔」感がすごい。
礼拝曲のJロックアレンジみたいな…。ヘ短調ということもあり、ブルックナーの「ミサ曲第3番ヘ短調」に近い雰囲気を感じる。


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