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『黒色のオーラ』歌詞内の《友情》と《愛》と《夢》について。
防衛のために召喚された語が、防衛対象である欲望をすでに含んでいる…という話を2つ。


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《友情あればこそ 今 本気で勝ちたい
 願い裏腹にちから 奪い取られても

 弾け飛ぶ心の“たが” そこにある無我の境地
 絶えず夢に 愛に誓う 壊せ見えぬ壁を》


***


①先日の文章の補論:《友情》の二重性について

先日の分析では《友情あればこそ》を、《おまえだけに 逢うために》という漏出を塞ぐために召喚された防衛の語彙として読んだ。欲望が口をついて出た直後に、社会的に許容される名で上書きしようとする抑圧の動作として。

この読み自体は変えないが、一つ留保しておくべきことがあるので補足。先の分析では論の流れを明瞭にするためにあえて「防衛」の側面だけを追ったが、しかし《友情》を単なる偽装とするのでは、この語がこの歌詞の中で果たしている機能を見誤らせる。

男同士の間で——まして少年漫画の文法で——相手への強い情動的な結びつきを言語化しようとするとき、使える語彙はきわめて限られる。このテクストにおいては、たとえば「恋」は話者の意識に即座に退けられる。「信頼」や「尊敬」ではこの歌詞が描く感情の強度に足りない。その状況の中で「友情」は、男同士の間で「おまえは俺にとって交換のきかない存在だ」と言うことができるほぼ唯一の公認された形式である。(*「愛」については②で後述。)

したがって《友情あればこそ》と言うとき、話者は嘘をついているのではない。本当の感情を知っていて隠しているのでもない。何度も言うが彼は素直である。自分の語彙の中で、最大限の誠実さをもって感情を言語化しようとした結果が《友情》だ。


しかしテクストに書き込まれた実際の感情は、辞書的な定義に鑑みても実際の言語使用上のコノテーションに鑑みても、「友情」の語の容量を超えている。《風が消えて 時が止まり》——外界が消失し二人きりの空間に閉じる排他性、《おまえだけに 逢うために》——毎日「会って」いるはずの相手に《逢う》と言う切迫と《おまえだけに》に宿る欲望の唯一性、《来いよ おまえの手で 確かめろ》——自己の内部に生じた変容を《おまえの手》に触知されたいという身体的接触への希求、《いつもおまえがいるから 夢を思い出す》——本来は内的な欲望である《夢》への回路すら相手に預けている依存あるいは癒着……などなど。

これらはすべて《友情》の中に流れ込んでいるが、《友情》の公式な意味領域には収まらない。語は内側から膨張し、その表面に圧力がかかっている。《友情あればこそ》の《こそ》の力みは、この膨張の徴候としても読める。語の意味だけでは足りないから力を込める。あるいは、語の容量を超えた感情が内側から押し広げようとする圧力に対して、語の形を保とうとして力を込める。しかし力を込めるほど、この語が自身の意味領域を超えた何かを運ぼうとしていることが透けて見える。

ここで《友情》は蓋であると同時に通路でもある。欲望の性的な次元を検閲する蓋であると同時に、相手への感情の強度が社会的に許容される形で通過できる唯一の開口部。この二重性は、先の分析で追跡した漏出→防衛→崩壊の構造において、その防衛があれほどの速度で崩壊する理由を説明する。先の分析ではその理由を「防衛が本来の欲望と根本的に相容れないから」と書いたが、もう一段深い層がある。

防衛が速やかに崩壊するのは、防壁の素材そのものが欲望の媒体だからである。《友情》は欲望を塞ぐ語であると同時に欲望を運ぶ語であり、防壁の内部を、その防壁が塞いでいるはずの当のものが流れている。外部からの圧力で壁が破られるのではなく、壁が自らの素材によって内側から溶解している。《友情あればこそ》が《願い裏腹にちから 奪い取られても》へ一行で崩れ落ちる速度は、《友情》という語が最初からその内部に、自分を溶かすものを含んでいたことの帰結である。


この構造は《友情》に限られたものではない。この歌詞全体において、闘いの語彙は闘い以上のものを運ぼうとして軋んでいる。《願い裏腹にちから 奪い取られても》は抵抗する心と弛緩する身体の乖離を、《非情なる本気こそが 俺たちの勇気だから》はサドマゾヒスティックな親密さの過剰を、《神に捧げるのだ 全力を》にいたっては自己の明け渡しを運んでいる。そしてどの語も本来の意味領域を超えた重さに耐えきれず、表面に亀裂を生じさせている。先の分析で追跡した漏出とは、この亀裂から滲み出すもののことであった。《友情》はその最も凝縮された例にすぎない。

逆説的だが、男同士の親密さを表す語彙の貧困が、ここではテクストのエロティックな緊張を生み出す構造的な条件になっているともいえる。感情をぴったり表現する語が存在すれば、語は安定し、亀裂は生じない。語彙が不足しているからこそ、既存の語が耐えきれない圧力を受け、その圧力がテクストの表面を歪ませ、語が公式には運ばないはずのものが漏れ出してしまう。

これは精神分析がいう抑圧と回帰の論理そのもの——欲望は直接的な表出の経路を塞がれると迂回路を探し、その迂回路を通って回帰するとき、直接的に表出された場合よりもかえって過剰な強度を帯びる。この歌詞に宿る官能的な緊張の一因は、語ろうとして語りきれないものの圧力が語の表面をたわませていることである。


***


②《友情》と《愛》と《夢》について

まず《友情》 は、話者が《おまえ》との関係を名指すために使用する最も直接的な語であり、同時に話者の意識にとって最も安全な選択である。しかし①で述べたように、その安全性はこの語が欲望の蓋であると同時に欲望の唯一の通路でもあるという二重性によって、内側から侵食されている。防壁の素材が欲望の媒体でもあるために、防壁は自己溶解し、一行すら持たずに崩壊する。《友情》は関係の名前として正面から使われるが、まさにその直接性ゆえに防衛として脆い。


《愛》 は、《友情》とは異なる仕方で処理されている。《絶えず夢に 愛に誓う》——《愛》は《夢に》の後ろに、並列の形で滑り込む。思わず漏出した《愛》が、先行する《夢》という防壁との並置によって、抽象的な理念の位置に安全に着地したかに見える。さらに「愛」は「恋」と異なり、性的な意味だけでなく非性的な意味にも接続しうるため、その多義性も安全装置として機能している——“チームへの愛”、“仲間への愛”、“同志への愛”。

そしてここで《愛》は、感情の名前ではなく、誓いの宛先として使われている。《愛を誓う》ではなく《愛に誓う》。話者は自分の感情を《愛》と名指してはいない。《愛》を自分の外部にある抽象的な審級——誓いを立てる相手——として迂回的に召喚している。

この配置の巧妙さは、《愛》を使いながら《愛》を自分の感情として所有することを回避している点にある。《愛に誓う》は、愛という原理に誓うという構文であり、自分が誰かを愛しているという告白の構文ではない。だから自我の検閲を通過できる。夢に誓い、愛に誓い、壁を壊す——これは戦士の誓いとして読める形式を保っている。

しかしここでもまた、テクストは話者の意識が許容したものを超えてしまっている。《愛に誓う》と口にした瞬間、話者がこの闘いの中で追求しているものの中に《愛》が含まれていることが露出する。そして《夢》と《愛》は構文上同格の位置に置かれているが、同じものではない。異なるものが同格に据えられることで、かえって意味の差異が際立つ——《夢》は自己の理想に向かうが、《愛》は他者に向かう。そしてこの闘いの中に他者は一人しかいない。このテクストの運動は一貫してその一人の他者に流れており、《愛》もその流れに逆らわない。


さらに、《夢に 愛に誓う》の並列において、《夢》は一見すると抽象的な理念として安全に機能している。話者にとって「夢に誓う」は完全に無害な表現であり、スポーツの文脈で何の問題もなく通用する。《夢》は《愛》の危険性を中和する安全な語として並置されている……ように見える。が、実のところテクストの中で《夢》は全く安全ではない。

まず《いつもおまえがいるから 夢を思い出す》という文の構造を追えば、《夢》は《おまえ》なしには想起すらされない。夢を思い出すのはいつもおまえがいるからである、おまえがいないときには夢を思い出さない、夢はおまえの存在によってのみ活性化される……《夢》と《おまえ》は絶対的に不可分である。しかも《いつも》の語が、これを一度や二度の偶然ではない恒常的な構造として成立させている。(*こちらを参照)

この構造のもとでは、《夢》と《おまえ》の間にある実質的な差異がきわめて薄くなる。夢を思い出すこととおまえの存在を感知することが、同じ経験の二つの側面になっている。《夢》は《おまえ》の別名であり、《おまえ》は《夢》の内容である。

そうなると、《夢》はもはや《愛》の中和剤にはなりえない。《夢》はそれ自体が《おまえ》に浸透されている。そして《夢に 愛に誓う》において、この浸透された《夢》と《愛》が隣り合い、《誓う》という述語を共有している以上、《愛》もまた《おまえ》の方向へ引き寄せられずにはいない。《友情》と同様に、防壁だったはずの《夢》が、防衛対象である欲望をすでに含んでいる。

《夢に 愛に誓う》——これは話者の意識においては「理想と愛に誓う」であろうが、テクストの論理においては「おまえに、おまえに誓う」という同じ一点への二重の呼びかけに等しい。ここにも、先の分析で見た《おまえだけに 逢うために》における同語反復と同じ構造が現れている。《逢う》の中にすでにある排他性を《だけに》が重ねて刻んでいたように、《夢》の中にすでにある《おまえ》を《愛》がもう一度重ねている。


そして《絶望の裏側に 夢の続きがある》が、この構造をさらに深くする。

《夢の続き》は幸村の曲のタイトルからの引用である(しかも続編まで制作されていて人気も存在感も大きい曲の)。であれば《夢の続きがある》という表現は、テクストの外部にある《おまえ》の言葉をテクストに取り込む行為である。話者が《夢の続きがある》と言うとき、それは抽象的な希望の表明であると同時に、《おまえ》の言葉を自分の口で反復する行為でもある。《おまえ》の語彙が話者の語彙の中に侵入している。

さらに、この引用が置かれている場所の意味——《絶望の裏側に 夢の続きがある》。力を奪い取られ、たがが弾け飛び、底が開き、栄光がこぼれ落ち、光が消え去り、全力を神に捧げた後の——すべてが通過された後の認識として置かれている。自我の崩壊を通過した先で見出されるものが《おまえ》の言葉なのである。

自分の言葉がすべて尽きた場所で、残っているのは相手の言葉。自我が溶解した後に残る言語が、自分の語彙ではなく相手の語彙であるということ——ここには被侵入性の非常に深い形態がある。自分が最も深い場所で語る言葉が、実は相手の言葉だった。

そしてこの浸透は、《夢》という語がこの歌詞の中で果たしてきた機能の全体を遡行的に書き換える。《夢》はこの歌詞の中で複数回使われている。《絶えず夢に》《夢を思い出す》《夢の続き》。話者にとって《夢》は自分の内発的な志向性——自分の目標、自分の理想——として使われているだろう。しかしその《夢》が《おまえ》と不可分であり、しかも《夢の続き》が《おまえ》の語彙であるならば、話者が「自分の夢」として語っているもの自体が、最初から《おまえ》によって浸透されていたことになる。

主体の最も内的な動機として機能しているものが、実は相手に由来するものである。自分の欲望だと思っていたものが、相手の存在によって生み出され、相手の言葉によって形を与えられたものである。自分の内部だと思っている場所に、すでに相手がいる。


***


《友情》《愛》《夢》の三語はいずれも、テクストの内的な論理によって同じ一点に収束する。《友情》は《おまえ》との関係を名指し、《夢》は《おまえ》なしには想起されず、《愛》は《夢》と並置されることで《おまえ》に接続する。異なる語を使って異なることを言っても、どの語も同じ一点——《おまえ》——に向かっていく。語彙を変えても変えても同じ場所に帰ってきてしまう、この反復のどうしようもない不随意性。

これらの三語はそれぞれ異なる距離と角度から《おまえ》への欲望を運びながら、いずれもその欲望の全体を名指すことには失敗している。どの語も感情に対して不十分であるために、内側から膨張し亀裂を走らせてしまう——その緊迫こそがこのテクストの醍醐味ともいえる。三語がすべて《おまえ》に収束するのに、《おまえ》への想いを正確に言い当てられる語はどこにもない。見つけられない。名指されない欲望の必死さが、聴く者の身体を打ち続ける。


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(余談)
ついでに「恋」について言うと。日本語の意味として「恋」の核にあるのは、対象との間の隔たりを埋められないまま求め続けるという構造。そしてこの歌詞の、毎日顔を合わせている相手に「逢いに行く」と宣言しなければならないという事態の異様さは、物理的な近さでは埋められない隔たりが存在することを示す。つまり普段は、会っていても逢えてはいない。このテクストで話者が求めている《逢う》の内実は、日常的な「会う」の延長線上にはない。それは《容赦のない 神の領域》に踏み込むこと——自分が壊されることを引き受けること——だから。

物理的な距離はすでにない、それでも逢えていない。隔たりの原因が距離ではない以上、距離を詰めても解決しない。毎日顔を合わせるたびに、物理的にはここにいるのに欲望が求める水準では相手に自分を見せられていない/見てもらえていないという事実が反復される。近さが隔たりを解消するのではなく、残酷にも近さこそが隔たりの感知を鋭くする……テクストの構造が「恋」と同型のものを描き出している。(もっといえばこれは「片想い」と同型か。)


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