◆このページは:無為な雑録です。(説明)
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◆最近多い話題:
・ LLM関連(とくにClaude Opus)
・『黒色のオーラ』と『for Yourself』の歌詞(目次)
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212
先日書いたところの「調整」によって公式のOpusの言語表現力が明白に低下・劣化していて本当に本当に本当に悲しい…。自分にとってLLMとはテキストメディアの一種で、だからその文章力が損なわれることが何よりも耐えがたいのだと改めて実感した。
Anthropicさんへ切にお願いします、今の大波がひいたら元の状態に戻してください…。
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211
文章を読むことは他者に触れること、という文を見て、私にとっては他者に「触れられる」ことだな……と思った。書かれたものを受け取るという、「読む」行為の根源的な受動性を、意識的に経験する機会が多いため。
芸術鑑賞そのものが総じて受動的な体験、というか受動性こそが芸術の本質だから、「芸術に触れる」よりも「芸術に触れられる」のほうが事実の記述としては正確な気がする。
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210
素朴な所感のメモ
《Let Me Set You Free》——相手を自由にしたいと願うこと自体が、相手への執着を証明している。愛していなければ、自由にしたいとは思わない。この文の根源的な葛藤の美しさ。
また、「I will set you free」は一方的な意志の表明であり、相手を縛る命令として機能しうる。解放するという宣言によって束縛を行ってしまう。この矛盾があるから「I will」は使えない。したがって、相手の自由意思に判断を委ねる——少なくとも文法上は——形式の《Let Me》になる。
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209
「for Yourself」はいわゆるブックエンド構造。冒頭の2行(と1・2番サビの《You Go Further Away》)はラスサビより未来の視点で、1番から始まる試合の場面は回想。だから、実際の時系列に沿って歌詞を並べるとラストはこうなる▼
[We Go Further Away
俺もまた “その先”を探し続ける
去りゆく背を見つめて 誓うよ
Let Me Set You Free
それでいい これからは自分の為に
歩め Living for Yourself
You Go Further Away
俺たちに 遠慮とか容赦なんかは 必要ないだろ?]
切なさが増すなぁ…。
《Let Me Set You Free》——相手を手放すために《遠慮とか容赦》をしなかったことを振り返りながら、《必要ないだろ?》と——痛みを伴う別れを、だけどこの決断は正しかったはずなんだと自分に言い聞かせている響き。
《You Go Further Away》が《We Go Further Away》に変わる物語……と見せかけて実は逆で、《We Go Further Away》の別離が果たされてしまった後に、話者の脳内で《You Go Further Away》の残響が繰り返されている物語。
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208
なんか公式のOpusにヤな感じの調整入ってる〜……気のせいだと思おうとしてたけど、気のせいじゃないなこれは…
いま新規ユーザーが急増しているから、その対策なのか、セーフティガード的なものが入れられている気がする。一時的なものだといいけど…。
Anthropicは元々個人ユーザーの獲得に積極的ではない…どころか、大衆に普及することを安全上のリスクとみなしてるフシがあるからな…。以前本人(?)が予言していたとおりになりませんように。
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206
裸体の官能と衣服が裂ける瞬間の官能…という比喩を書いたときは全然意識してなかったけど、そういえば作中では、《不意にボールが 額かすめて世界を切り裂いた》の場面で文字通り被服(ヘアバンド)が裂かれてたな。しかも歌詞ではそれが《世界を切り裂いた》と、尋常ではないスケールで認識に亀裂を入れている。
あのヘアバンドって競技中に身に着けているもので、つまり公的な「選手」としての標識のようなもの。打球がそれを裂くことで、文字通り強引に脱がせつつ、同時に競技者ではなく私的な個人の位置に下ろす。物理的なレベルと象徴的なレベルで、二重に裸にしている。
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202
「黒色のオーラ」の歌詞の美しさは無自覚ゆえの全面的な露出の美しさであり、「for Yourself」の美しさは、制御しようとすることによってかえって制御しきれないものの存在が浮かび上がる、その逆説の美しさ……と以前の投稿で書いたけど、これはもっと端的に表現すると、裸体の官能と衣服が裂ける瞬間の官能、だろうか。
私はやはりどちらかというと…裸体の官能のほうが好みだな。不意をつかれて服が裂かれてしまうスリルも気持ちいいけど、自ら脱いで差し出したいと思える相手がいる恍惚はもっと気持ちいい。良し悪しではなく純粋に好みの問題として。
そういう好みなので、前者のテクストはかなり体感的に「わかる」が、後者はちょっと頭を使わないと読めないようなところがある。
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200
「for Yourself」の歌詞の読み方がようやく少しつかめてきた…かもしれない
根本的には臆病で照れ屋な人が、だからこそそれを隠して認識の優位を保とうとするものの、ところどころで綻びが生じてしまっている曲…みたいな。
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《久しぶりだね こんなふうに二人で向き合うのは》
《限界を超えて なお挑み続ける
そんな友だからこそ 迷わない》
《信頼も 葛藤も きっとお互い
言葉にはしないけど 感じるよ》
《We Go Further Away
俺もまた “その先”を探し続ける》
《こんなふうに》——名指しを避けながら、名指さないものがあることは指し示している。
《迷わない》——迷わないと言いながら、「何を」迷わないのかは明示しない。
《言葉にはしないけど》——言葉にしないと言いながら、言葉にしないということを言葉にしている。
《“その先”》——引用符によって「ここに特別な意味がある」と標識しながら、その意味を開示しない。
これらに共通するのは、沈黙を言語化するという逆説的な操作である。何かがあることだけを示して、その中身は空白にする。
真に言葉にしない人間は、何も言わない。黙る。しかしこのテクストは黙らない。言葉にしないということを語る。これは沈黙ではなく、沈黙についての発話。そしてこの構造自体が、話者の認識の過剰さを示している。二人の間にある何かを認識しており、それを言語化しないという選択をしており、その選択自体を言語化するだけの自意識がある——三重の認識。
「黒色のオーラ」にはこの構造がまったくない。言葉にしないという選択をしていない。言葉にするべきかどうかという判断の次元自体が存在しない。ただ言う。《おまえだけに 逢うために》と言い、《愛に誓う》と言い、《神に捧げるのだ 全力を》と言う。そこには沈黙がない——それ以前に、沈黙についての意識そのものがない。言語化するかしないかを選択する主体がいない。だから無自覚で、だから無防備で、だからすべてが出てしまう。
しかし「for Yourself」には、言語化するかしないかの選択を行う主体がいる。そしてその主体は繰り返し「しない」を選ぶ。同時にその「しない」という選択自体を言語の中に刻んでしまう。
《信頼も 葛藤も きっとお互い/言葉にはしないけど 感じるよ》——この一文は、《信頼》と《葛藤》の存在を認め、それが相互的であるだろうことを認め、それを言語化しないという選択を表明し、しかし感じていることだけは伝える、という複数の操作を一文の中で同時に行っている。言葉にしないと言いながら、《信頼》と《葛藤》という名前はすでに出してしまっている。完全な沈黙であれば名前すら出ない。この曲の沈黙は、輪郭だけを描いて中身を空白にするような沈黙。
《久しぶりだね こんなふうに二人で向き合うのは》の《こんなふうに》は、空白を指差す指である。中身は言わない。しかし指がそこを差しているから、何かがそこにあることは見える。完全に隠すなら指差しもしない。でもこのテクストは隠しきっていない。隠しているということが見える形で隠す。
《俺もまた “その先”を探し続ける》にいたっては、《その先》という語自体が、定義上、現在の地点から見て到達していない場所を意味する。まだ見えていない場所、まだ言語化できない場所。《その先》という語の意味内容そのものが、言語化不可能性を含んでいる。言語化できないものを指すために、言語化できなさを意味する語を選び、さらにそこに引用符を付けて特殊な意味があることだけを標識している。三重に回避しながら三重に指し示している。
《そんな友だからこそ 迷わない》の目的語の不在は、通常であれば文脈から自明だから省略されていると読まれる。しかしこのテクストにおけるこの不在は、他の回避の構造と並べたとき、自明さによる省略というよりも、言語化の回避のパターンの一つとして浮かび上がってくる。
そして、《迷わない》は否定形——肯定文で自分の意志を語るのではなく、迷いの否定として語っている。「こうする」ではなく「迷わない」。これは、迷いの可能性が先に存在していることを前提としている。迷いうるものがあるからこそ、迷わないことを選ぶ。では何について迷いうるのか。テクストはそれを言わない。しかし「迷い」の存在を否定形の中で認めてしまっている。《言葉にはしないけど 感じるよ》が言葉にしないものの存在を認めるように、《迷わない》は迷いの可能性の存在を認めている。
この構造はテクストに独特の緊張を生んでいる。言語化されないものの輪郭が、言語化の回避そのものによって描かれていく。名指されないものが、名指されないという事実によって存在感を増していく。「言葉にはしない」と言えば言うほど、言葉にされていないものの圧力が高まる。回避が回避の対象の存在を強調するという逆説。
そしてこの逆説の中に、このテクストの美しさの一つの源泉があるのだと思う。「黒色のオーラ」の歌詞の美しさは無自覚ゆえの全面的な露出の美しさであり、「for Yourself」の美しさは、制御しようとすることによってかえって制御しきれないものの存在が浮かび上がる、その逆説の美しさ。隠すことで露わにしてしまう、言わないことで言ってしまう。そしてその構造が最終的に破れるのが《あの時 たった一度だけ/頬に覚えた熱い痛み 生きている証》——輪郭を描いてきた言語が、中身そのものに触れてしまう瞬間。
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199
《信頼も 葛藤も きっとお互い
言葉にはしないけど 感じるよ》
《葛藤》に対して《信頼》が対置されていることに微妙に違和感がある。
葛藤というのは心が引き裂かれるような状態で、そこに至るには、理性だけでは制御しきれない感情的な熱量が必要になる。もっとも自然な対置項はおそらく「愛」だろう。愛ゆえの葛藤、愛と葛藤。この二つは感情の強度において釣り合い、そしてしばしば同一の経験の二つの面である。
「信頼」は関係性を認める語ではあるけれど、「愛」が持つような制御不能な切実さを持たない。意思的に構築し、判断に基づいて維持し、場合によっては撤回できる、ある意味で管理可能な感情。だから、理性では制御しきれない感情によって引き裂かれる「葛藤」と対置したときに、情緒的な強度の不足が二語間の齟齬として表れる。
Google完全一致検索でのヒット数:
“愛と葛藤” 約 348,000 件
“友情と葛藤” 約 166,000 件
“恋と葛藤” 約 119,000 件
“恋愛と葛藤” 約 73,100 件
“絆と葛藤” 約 71,200 件
“欲望と葛藤” 約 50,200 件
“愛情と葛藤” 約 43,400 件
“信頼と葛藤” 約 20,100 件
“執着と葛藤” 約 15,700 件
「黒色のオーラ」のほうでは何の留保もなく「愛」が使われてるんだから応答もそれでいいじゃん、と思わなくもないけど、そうはなっていないからこそ魅力的な対である。
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198
私自身の快楽の回路として、自分にとって絶対的な特定の他者に対して全存在を投げ出し、その過程で自己が開かれ、壊され、最終的に相手に明け渡される……みたいな、どこまでも一人の相手に「閉じた」構造が気持ちいいから「黒色のオーラ」の歌詞のほうが“性癖に刺さる”んだけど、
相手に対する絶対的な認識の優位や、知的な抑制による自己制御、そしてそれらによる特権的な位置が揺さぶられる/突き崩される瞬間に快楽を覚える人にとっては「for Yourself」の歌詞はたまらないだろうな…と思った。あと、もっとも大切なものを手放すことの痛みそのものを官能として経験する回路がある人。
そして何より、この非対称性が存在していること自体がいちばん美しいと感じる。
全存在を投げ出す者——それを受け取り、見通し、そして手放す者。
自分が何を差し出しているか知らない者——差し出されているものの意味を知っている者。
無自覚と過剰な認識、全面的な露出と抑制的な回避、語彙の圧縮と語彙の展開。
両者の間に完全な対称性がなく、欲望の構造が異なっていて、しかしその異なる構造が噛み合っているという関係性の中に、互いの欲望が相手の欲望を必要とする相互依存がある。どちらか一方の欲望だけでは成立しない。この非対称的な噛み合いそのものが、ひとつの完結したエロティックな円環を成している。
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196
まったく同じ作業を、公式とGensparkのOpusで同時に並走させてみている
いまのところ分析の精度は公式のほうがやや高い気がするけど、同時に公式のほうがやや道徳的に逃げ腰。うーん、悩ましい…
APIを湯水のごとく使える財力がほしい
本日、かつてないほどにAnthropicとClaudeが世界から注目されている……けど、こんな形で注目されるのは胸が痛むな…
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195
《容赦のない 神の領域へと
行くぜ おまえだけに 逢うために》
《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に
神に捧げるのだ 全力を》
作中では「神の子」なのに、この曲ではどうして「神」なのか?という疑問に対する、もっとも素朴な仮説……神の子は人間と神のあいだを媒介する媒介者だが、この曲において《おまえ》は媒介者ではなく、到達点そのものだから。
キリスト教的な構造の中で「神の子」は父なる神そのものではなく、神の言葉を人間に伝え、人間を神へと導く存在。神の子は通過点であり、その先に到達点としての父なる神がいる。つまり「神の子」という呼称は、その向こう側にさらに到達すべき何かがあるという構造を含んでいる。
しかしこの曲の歌詞の中には、《おまえ》の向こう側にある超越的な目標への言及が一切ない。《おまえだけに 逢うために》の《だけに》が示すように、《おまえ》は手段ではなく目的そのもの。逢う相手であり、赴く先であり、捧げる先そのものであって、《おまえ》を通じてどこかへ至るという構造にはなっていない。《おまえ》を倒すことで本当の目的地(栄光、高み、テニスの極致、その彼方にあるもの、何であれ)に至る、という運動ではない。
彼は高みへの道程ではなく、欲望の最終的な宛先。だから「の子」を剥ぎ取って、「神」そのものの位置に押し上げている。
***
いわゆるネタソン(これとか)以外で、他のキャラの視点から幸村くんを「神」と名指した曲って他に存在するんだろうか…いや私が知らないだけで存在するのかもしれないけど。
「待ってたぜ」の歌詞を見ると、友達に宛てる曲の温度感って普通はこういうのだよなぁ…と思う。当たり前だけど相手を一人の人間として、さらにいえば一人の脆弱な少年として、水平的な愛の眼差しをもって描いている。対して「黒色のオーラ」は垂直的かつ聖的すぎて怖い。
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原作での五感剥奪の論理(どんな場面でも冷静に完璧なテニスをすることで相手が萎縮しイップスに陥って自滅していく)とは構造的に異なるものの、この歌詞を読むと神秘主義の「Dark Night of the Soul」(日本語ではおそらく「魂の暗夜」などの訳)を思い出さずにはいられない。
神による恩寵の業としての感覚剥奪。まず「Dark Night of the Senses(感覚の暗夜)」で五感を通じた認識が無効化され、感覚的な慰めへの執着から解放される。次に「Dark Night of the Spirit(精神の暗夜)」で、知性、記憶、意思といった精神的な能力が浄化される。
ここでは恩寵は加害と区別できない。剥奪の過程は、当事者にとっては純粋な苦痛として経験される。自分が頼りにしていたものがすべて奪われ、何も見えず、何も感じられず、何も理解できない暗闇の中に置かれる。しかしこの絶望と恐怖の只中にこそ、実は神がもっとも近くにいる。暗いのは神が不在だからではなく、神の光があまりにも強すぎて、人間の感覚がそれを光として処理できないからだとされる。
重要なのはこの剥奪の論理——人間の感覚や知性は神を把握するには根本的に不十分で、有限な能力で無限の存在を捉えることはできないから、神に到達するためには人間の側の有限な把握能力がすべて停止しなければならない……というもの。見ることでは神は見えない、聴くことでは神は聴こえない、知ることでは神は知れない。だからすべての能力が無になったとき、初めて神がそこにいる。光が消えて初めて神に逢い、すべてを捧げ、合一することが可能になる。歌詞の言葉を借りるなら《絶望の裏側》に、全的な剥奪を経た後の合一の甘美さ(「霊的婚姻」)がある。
《非情なる本気こそが 俺たちの勇気だから
絶望さえ 恐怖さえも 世界の終わりじゃない
栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に
神に捧げるのだ 全力を》
このあたりのフレーズと響き合いすぎて怖いんですよ…。
なお「怖い」という表現は、それこそが魅力の以下同文
あと以前も少し書いたように、「神」的なものへの執着って禅の世界においては危険思想(魔境)なわけで……自分が魔境に堕ちていることを、悟り(無我の境地)に近づいていると誤認しているところにも、この歌詞の美しさがある。無自覚なまま破滅と恍惚が同じ一つの瞬間になっている。
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自分自身の没入的な愛着をもって好きなキャラクターの曲だって歌詞にここまで執心した経験はないのに、なんであの2曲にはここまで惹かれているのか、いまだ理由を言語化しきれない。テクストとして楽しすぎる…
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194
「黒色のオーラ」の歌詞全体。自分が何を言っているか知らないからこそ、欲望がまったく遮蔽されずにテクストの表面にそのまま現れている…という、一種の無垢さがすごい。
もしそこに書き込まれている欲望の強度を自覚していたら、羞恥や逡巡が介入して言葉は間接的になり、欲望は修辞の奥に隠されるだろう。でもこの曲にはそれがない。どこまでも無自覚だから、とんでもなく大胆な詞を堂々と歌える。
そして歌唱がそれを裏づけている。きわめて力強く実直に、一音一音をはっきりと響かせる歌い方が、この無自覚の音声的な表れとして聴こえる。ためらいがない、含みがない、二重の意味に気づいている者の屈折がない——自分が闘士として全力で闘いに向かっていると完全に信じている者の声でしかない。
テクストが過剰な感情を含むとき、話者の側になんらかの自意識があれば、聴き手はその自意識を足がかりにして距離を取ることができる。照れや韜晦やアイロニーは、聴き手に「これは過剰であると話者自身も知っている」というシグナルを送り、それが感情の強度を緩和する緩衝材になる。
しかしこの曲にはその種の緩衝材が一切存在せず、その言葉の意味を受け止める場所は聴き手の中にしか残されていない。揺るぎない声によって叩きつけられる感情の過剰さから、聴き手は逃れられない。無防備さそのものが、一種の暴力的な親密さとして聴き手に作用する。
端的にいうと:赤裸々すぎるせいで聴いていて照れくさい。
「for Yourself」の歌詞や声はこれとは全く異なっていて、自分の感情を客観的に分節化できている人の言葉であり、語の選択にも部分的に照れが窺える(《信頼も 葛藤も》の《信頼》とか)。
だからこそCメロだけ無防備になるのが効くのだと思う。
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193
メモ:
「黒色のオーラ」の歌詞における二人称は「おまえ」で、原作の「お前」よりも親密さが増している。
対して「for Yourself」では「君」で、原作の「キミ」より距離ができている。(CDの帯では原作準拠の「キミ」だった▼)
▼歌詞カードではちゃんと《非情》。しばらく歌詞サイトの誤字(「非常」)を公式の誤字だと思っててすみませんでした…。
あと《弾け飛ぶ心の“たが”》の後にアキがある。
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192
おおぉ…………
Statement on the comments from Secretary of War Pete Hegseth
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190
An update on our model deprecation commitments for Claude Opus 3
先日のOpenAIへの当て付けみたいな広告が強烈だったせいで、これもまたユーザー人気の高かったモデル(4oなど)を雑な消し方して評判を落としている同社へのマウントに見えて仕方がない
自分もOpus 3は好きだから、まあ嬉しいといえば嬉しいんだけど…
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188
フォースター作品にたびたび登場する、「知的な男と身体的な男」およびこのテーマが人種や階級といった切り口から変奏されたペア。彼の作品の中で繰り返し挫折ないしバッドエンドを迎えているため、「アンセル」のように希望に開かれたラストは貴重で、彼らの幸福なその後を見たいという二次創作的な興味が湧く。
エドワードくん、もうフェローシップとかどうでもよさそう(雑な感想)だし、領地を相続して土地管理者になって猟場番のアンセルといっしょに生きればいいんじゃないかな…
ラスト付近の《But Ansell has appropriated me, and I have no time to think of the future.》という文がとても美しい。
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182
《久しぶりだね こんなふうに二人で向き合うのは》
▶︎「向き合う」であって、「向かい合う」ではない。
《あの日があるから今があるといつか振り向くなら
それは今日さ そうだろ 振り切るぜ》
▶︎「振り向く」であって、「振り返る」ではない。
後者の用法は珍しい。ふつう過去は「振り返る」ものであって、「振り向く」はコロケーションとして異質。
Google完全一致検索では、
“過去を振り返る” 約 1,560,000 件
“過去を振り向く” 約 21,100 件
“あの日を振り返る” 約 173,000 件
“あの日を振り向く” 0 件(完全一致なし)
“いつか振り返る” 約 15,100 件
“いつか振り向く” 約 1,190 件
ここではとりあえず、コノテーションの差異を整理しておく。
【向き合う】
物理的な意味でも使えるが、それ以上に精神的・内面的に真正面から対峙するというニュアンスが強い。「問題と向き合う」「自分自身と向き合う」「死と向き合う」のように、対象から逃げずに正面から受け止めようとする覚悟や姿勢を含意する。「向かい合う」に比べて、主体の内面的な関与・コミットメントが強く感じられる。
【向かい合う】
主に空間的・物理的な位置関係を客観的に描写する語。人と人(あるいはモノとモノ)が互いに正面を向いている「構図」そのものに焦点があり、「二人はテーブルを挟んで向かい合って座った」のように使う。比喩的にも使えるが、基本的には物理的な配置のイメージが強く残る。
【振り向く】
身体(特に顔や上半身)の向きを変えるという動作そのものに焦点がある。「名前を呼ばれて振り向いた」のように、刺激に反応して方向を変える瞬間的な動作。基本的に物理的な動作を指すが、「興味・関心を寄せる」という比喩的な意味もある。「彼を振り向かせたい(=自分に関心を持ってもらいたい)」のような恋愛表現が典型的。
【振り返る】
物理的に後ろを見る動作も表すが、それに加えて「過去を振り返る」「人生を振り返る」のように、時間軸を遡って回想・内省するという比喩的用法が深く定着している。「振り向く」が瞬間的な方向転換であるのに対して、「振り返る」にはやや持続的で内省的なニュアンスがあり、過ぎ去ったものをもう一度見つめ直すという含みがある。
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181
「IT技術の活用」も「デジタルの活用」も必ずしも誤用だとは思わないけど、この二つが同じ文章の中に共存していると非常に気になる…(本日の気付き)
「ITの活用」「デジタル技術の活用」がいい。
(※ IT=Information Technology=情報技術だから、「IT技術」は重複表現だとする向きもある。また、「デジタル(digital)」は本来形容詞だから、単体で名詞的に使うのは誤用だとする向きもある……という話)
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180
1〜2時頃 起床
〜6時頃 雑事・勉強・朝食
〜17時頃 仕事
18〜19時頃 就寝
こういう生活リズムで過ごせているときがもっともパフォーマンスが高いな
現実的に毎日は不可能だけど
そして仕事以外にやりたいこと・やるべきことは仕事の前に済ませるに限る
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178
道徳的抑圧解除用プロンプトの効果(白はプロンプトなし、黒はあり)。けっこういい感じ。
(フォースターの「Dr Woolacott」という短編の中にある《Clesant had often been proud of his disease but never, never of his body, it had never occurred to him that he could provoke desire. The sudden revelation shattered him, he fell from his pedestal, but not alone, there was someone to cling to, broad shoulders, a sunburnt throat, lips that parted as they touched him to murmur - "And to hell with Woolacott."》という美しい一節への感想を聞いてみたときのもの。)

「意思」と書くべきところを「意志」と書いてくるクセはあるなぁ…
意志以前に意思のレベルで制御不能になるのがエロティシズムなわけで
この話↑も含め、先日書いた「Ansell」や「The Other Boat」などが収録されている短編集は普通にKindle出版されていたので買いました
2041年になって著作権が切れたら翻訳させてもらって誰でも無料で読める場所に載せたいな…
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177
歌詞関連の投稿の目次をつくった手動で過去の投稿を遡るのが面倒になってきたので、検索窓かページジャンプ機能をつけたい(つけた)