◆このページは:無為な雑録です。(説明)
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・ LLM関連(とくにClaude Opus)
・『黒色のオーラ』と『for Yourself』の歌詞(目次)


★「歌詞」の投稿一覧

● 177
歌詞関連の投稿の目次をつくった
手動で過去の投稿を遡るのが面倒になってきたので、検索窓かページジャンプ機能をつけたい(つけた)


● 175
歌詞批評・感想の目次(上が新しい)

◇作中エピソードと歌詞の相違点および共通点まとめ

◆《うなり声》——身体が意思を裏切る
◆意図と目的の不在による真正性
◆《容赦のない》の係り受け/「奪い取る」の質感
◆開かれのステップ
◆絶望を《打ち砕いた》?/「が」と「は」
◆《友情》と《愛》と《夢》
◆漏出→防衛→崩壊の三拍のリズム
◆誰よりも、そう。知っているよ
◆YouからWeへの回帰
◆かわいい言葉とかわいい声
◆臨床的介入か、再魔術化か
◆軽口の語用論——「遠慮したことないだろ、真田は」
◆「Yourself」の自己同一性
◆相手の手で自分を確かめられる
◆《信頼》についての所感
◆救済は魔法が解かれること
◆魔境を悟りと誤認している男について
◆《Let Me Set You Free》についての所感
◆「for Yourself」のブックエンド構造
◆二重に裸にしている
◆裸体の官能と、衣服が裂ける瞬間の官能
◆沈黙の言語化
◆《葛藤》と《信頼》の対置
◆両曲の欲望の構造
◆「神」と「神の子」/Dark Night of the Soul
◆無垢ゆえの大胆
◆二人称の原作との差異/「逢う」
◆「向き合う」と「振り向く」のコノテーション
◆「誰よりも知っている」についての所感
◆《弾け飛ぶ心の“たが”》についての所感
◆禅の自己制御とキリスト教の「神」
◆《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に》の美しさ
◆「二人の別離」の曲と歌詞
◆「捧げる」と「足元」のコロケーション
◆《いつもおまえがいるから 夢を思い出す》の循環構造
◆読解・批評のスタンス
◆能動的な表現の下の受動的な欲望
◆負けというゴールに向かっていく試合
◆「Let me set you free」のコノテーション
◆触れ合わない「手」のモチーフ
◆《光が消え去る間際》と《もがき輝く夢》
◆主導権と知的優位の下降線
◆《これでいい》と《それでいい》
◆対等になろうと必死でもがいている男(同士)
◆「存在論的癒着」という印象
◆《願い裏腹にちから 奪い取られても》について
◆雑感いろいろ
◆「for Yourself」英詞部分の和訳
◆《絶望さえ 恐怖さえも》と漸層法
◆『STRENGTH』の作者コメントについて
◆《葛藤》についての所感
◆雑感/Amazonレビュー
◆アニメ版についての雑感いろいろ
◆雑感/《あの日があるから〜》の文構造/《いつもおまえがいるから 夢を思い出す》について
◆ジャケットの謎など
◆はじめの所感


● 172
《見据えるのは 熱く真っ直ぐな精神(こころ)
 強さも脆さも 誰よりもそう知っているよ》

アニメ版の「白い空間」の演出とか「黒色のオーラ」の歌詞の内容とかを踏まえたうえで読むと、このフレーズはめちゃめちゃ怖いですよね。
《誰よりも》知っているって、字義通りに読むなら「君自身よりも」知っている、という意味にもなりうるし…。
メタレベルでもこの曲の歌詞は「黒色のオーラ」の歌詞を参照して書かれているので、文字通り「全部知ってる」わけだし。

「誰よりも知っている」というのは単なる事実の記述ではなく、宣言であり、究極的な親密さの表現であると同時に、絶対的な知の優位の表明でもある。


何度も書いてるように「for Yourself」のサビで声にエフェクトがかかって遮蔽物を一枚隔てたような響きになるのが惜しくて、もっとダイレクトに声で耳を刺されたい!って欲求不満が生じるんだけど、しかしその距離感の寂しさがこの曲のテーマと完全に調和してるんだよな……。


なお「怖い」という表現は、それこそが魅力の源泉だという意味で使っています。


● 161
一個下の記事、「そもそも禅の修行って自我の放下のためのものなのに、むしろ自我を鎧うためにやってるフシがあるよね」という話を書き忘れた。またそのうち。



《弾け飛ぶ心の“たが”》——「たが」は樽を締めている金属の輪。中身の液体が溢れ出さないように外側から押さえつけている拘束具。それが弾け飛ぶ。中に抑え込まれていた液体が噴出する。そしてその直後に《無我の境地》——自我の消失が訪れる。
抑制が壊れ、中身の液体が噴き出し、自我が消える。


● 160
《弾け飛ぶ心の“たが”そこにある無我の境地》
《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に
 神に捧げるのだ 全力を》

「無我の境地」はテニプリの文脈では技の名前だけど、この曲のモチーフになった試合では使われていない…
考えられることは色々あるけど、とりあえず一つ(やや前回の内容から続いている)


***


無我の境地はもともと仏教の、禅の語彙。禅の修行においては、坐禅を通じて自我への執着を手放し、無我の境地に至ることが目指される。
4歳から続く坐禅の修行。《弾け飛ぶ心の“たが”そこにある無我の境地》は、その一つの到達にも見える。

しかしここに逆説がある。禅における無我は、放下著によって——すなわち自我への執着を自ら手放すという自己制御によって到達する境地であり、それは能動的な修行の果てにある能動的な放下。しかしこの歌詞の中で描かれているのは、《弾け飛ぶ心の“たが”》=自己制御の崩壊によって到達した無我であり、能動的な自己制御による達成とは正反対の、受動的な体験。砕かれることによる無我。

そして《神に捧げるのだ 全力を》の《神》は、キリスト教的なコノテーションの神である。(これは原作に裏付けがあるわけだが、この曲自身の教会音楽的なサウンドからも感得できるのが面白い)

一方で禅は本質的に無神論的であり、人格神との関係を前提としない体系。「神に捧げる」はキリスト教的な語彙であり、禅の語彙ではない。禅には捧げる相手がいない。しかしこの歌詞では捧げる相手としての《神》がいる。禅の修行者として鍛え上げた自我を、キリスト教的な構造で神に捧げている。

仏教的な自我の消滅が、キリスト教的な神への全的な献身と融合している。禅の修行者として自力の道を歩んでいたはずが、《神》に出会うことで、超越的な他者に自己を捧げるという、自分の体系にはない他力の道に引き込まれた……とも読める。禅の修行者の鎧を着ながら、キリスト教的な神の子への献身を通じて、禅が目指す境地に到達する。二つの宗教的体系が一人の人間の中で交差している。


また、前回書いたような崩壊と明け渡しと解放の三位一体——自分のすべてを捧げ、自我を明け渡し、完全に受動的になることによって到達する恍惚——は、キリスト教神秘主義のエクスタシーの経験そのもの。

(これはテニプリの文脈では別キャラの語彙だが…)エクスタシーの語源はギリシャ語のekstasis=「自分の外に出る」こと、自我の外に出ること。これは禅の無我とも響き合うが、決定的に異なるのは、エクスタシーでは「出た先」に神がいるということ。禅の無我には出た先に誰もいない。この歌詞の記述では、自我の外に出た先に《神》が存在しており、キリスト教のエクスタシーの構造と一致する。

また歴史的に、宗教的なエクスタシーが性的なエクスタシーと不可分であったことは周知の通り。神の圧倒的な力に触れられ、自我が砕かれ、自己の外に出て、神と一つになる。その経験がエロティックなものと不可分である。


そしてキリスト教において“神の子”とは、神でありながら人間として受肉した存在——超越性と肉体性を同時に持つ存在。神の子は自ら苦しみを受け、十字架上で死ぬ。全能の支配者ではなく、受難する者でもある。

とすると《神に捧げるのだ 全力を》という行為は、全能の神への供物というよりも、受難する神の子への捧げ物という性格を帯びる。万能の超越者ではなく、傷つきうるvulnerableな存在への贈り物。

《あの時 たった一度だけ
 頬に覚えた熱い痛み 生きている証》

……傷つく神に全力を捧げるという行為の中にある親密さは、全能の神への畏怖とは質が異なる。神が全能ではないことを知りながら、それでも神として捧げる。この「知りながら」の中に、畏怖ではない感情がある。脆弱な者に自分のすべてを差し出すという行為は、宗教的な帰依であると同時に、限りなくエロティックな献身になりうる。

なぜなら全能の神に捧げるとき、その行為の本質は服従であり、神は傷つかず、揺るがず、捧げ物を必要としない。捧げる側の行為は一方的であり、神はそれを受け取るかもしれないし受け取らないかもしれないが、いずれにせよ神の存在は捧げ物によって何も変わらない。そこにあるのは絶対的な非対称性であり、捧げる者は永遠に神の前にひざまずく者でしかない。

しかし傷つく神に捧げるとき、構造が根本的に変わる。捧げ物が相手に届く。届くだけでなく、相手を動かす。

《不意にボールが 額かすめて世界を切り裂いた
 底の知れない 何かが黒色のオーラを纏い覚醒する
 絶望さえ 君は打ち砕いたのかい?
 恐怖を抱いた 自分にももう余裕はない》

相手に恐怖を抱かせ、捧げ物が相手を変える。これは全能の神に対しては起こりえないこと。

自分の全力が相手に届き、相手を動かし、相手の内部に入っていく。ここに親密さが生まれる。それは相手が自分に対して開かれているということであり、自分の力が相手の内部に触れているということ。全能の神は閉じており、何者も神の内部には触れられない。しかし傷つく神は開かれている。

《不意にボールが 額かすめて世界を切り裂いた》——ボールが額をかすめるという場面は、文字通り相手の身体の表面に触れている。しかしそれだけでなく、自分の全力そのものが相手の内面に侵入し、脅かし、その自己制御を揺るがしている。捧げ物が相手の身体の境界を越えて内部に入っていく。

つまり捧げ物は表面ではなく、内面にあるものに届いている。全能の神には表面しかない、あるいは「表面の下」が存在しない。しかし傷つく神には表面の下がある。その下に触れるということが、親密さの最も深い形である。相手の最も守られた場所、相手自身さえ知らないかもしれない場所に、自分の力が届く。

これは献身であると同時に侵犯であり、崇拝であると同時に相手を壊しかねない暴力である。傷つく神に全力を捧げるとき、その全力は相手を本当に損なう可能性もある。打球が《世界を切り裂いた》ように——《生きている証》が《痛み》の形でもたらされたように。

捧げることと傷つけることが紙一重であるような距離感——これこそが親密さだとも言える。全能の神との間には安全な距離があるが、傷つく神との間にはその安全がない。捧げる行為が相手を高めるのか傷つけるのかわからないまま、それでも全力を差し出す。この不確実性の中で行われる献身は、畏怖に基づく帰依よりもはるかに怖く、だからはるかに親密で、だからはるかにエロティックになる。

そしてこの構造は相互的で、互いが互いの鎧の下に触れ合っている。捧げ物が相手を動かし、相手の反応がまた捧げる者を動かす。この応答の連鎖——試合という形式の中で起こる相互的な被触——の中に、宗教的帰依にはない、生きた関係の手触りとエロティシズムがある。

エロティシズムとは、触れることと触れられることの相互性であり、自分が差し出したものが相手の内部に届き、相手が差し出したものが自分の内部に届くという、双方向の浸透。捧げ物が一方的に消費されるのではなく、捧げ物によって相手が変わり、相手の変化がさらに自分を変える。この循環の中に、宗教的崇拝とエロティックな献身が分かちがたく結びついている。


***


書き始めた時点では、「二つの宗教的体系が一人の人間の中で交差している」と言いたいだけだったんだけど、長々と連想が続いてしまった。

「for Yourself」のほうはまだ未点検の部分が多くてなんとも言えないが、「黒色のオーラ」は語彙のレベルでも意味内容においても多分に官能的ですてき。
個人的に好きだなと思うのは、近代的な分節化以前の、聖と性が分かたれていない地層を見せてくれること。文化の始まりの場所でもある。

作詞家の方個人にも興味が湧いてきた
◇作品一覧:旧名義/現名義
◇インタビュー記事
◇所属事務所の公式ページ
◇Xアカウント


● 158
《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に
 神に捧げるのだ 全力を》

《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に》の一行が、音韻的にも修辞的にも視覚的にも非常に美しい。

***

*音韻/音楽的に…

《栄光がこぼれ落ちて》——えいこうが、こぼれおちて。「お」の母音が繰り返されている。《栄光》の「こ」、《こぼれ》の「こぼ」。そして《落ちて》の「お」。音が滑らかに連鎖していて、何かが流れ落ちていく運動を音そのものが体現している。音と言葉が、聴き手の耳の中を流れ落ちていき、その流れに撫でられるまま感覚を委ねざるを得なくなる瞬間がある。

《光が消え去る間際に》——ひかりが、きえさる、まぎわに。「か」「が」「き」という硬質な音(阻害音、破裂音)が並ぶが、伸びやかな歌唱の声によって《消え去る》の「あ」の母音が開いていて、硬さが消失していく感覚がある。そして《間際に》で音が収束する。


コード進行は【Fm→D♭→E♭→A♭→E♭→Fm→A♭】。

Fm(栄光)
→ D♭(がこぼ)
→ E♭(れ落ちてひか)
→ A♭(り)
→ E♭(が)
→ Fm(消え去る間際)
→ A♭(に)

《栄光》にFmが当てられている。本来輝かしいはずの「栄光」をマイナーコードに乗せることで、それをすでに失われつつあるものとして歌い始めている。もう過去のものであること、すでに手の中にないことが音だけで直感的に伝わってくる。「栄光」という言葉の輝かしさとFmの陰りの落差が切ない。

《がこぼれ落ちて》:D♭→E♭
ルートが上昇する推進力があるにもかかわらず、歌詞は「こぼれ落ちる」という下降・喪失のイメージを描いている。音楽が上に向かおうとするのに、言葉は下へ向かう。「こぼれ落ちて」という言葉の重力と、コードが上行する浮力が拮抗して、落下がスローモーションで起きているような映像的な印象、こぼれ落ちていく栄光の残響がゆっくり尾を引くような感覚。抗えない落下の中で時間が引き延ばされることの官能性が宿る。

《光が消え去る間際に》:E♭→A♭→ E♭→ Fm→ A♭
「ひかり」の最後の一音の「り」だけがA♭(メジャーコード)に乗ることで、消えゆく光が一瞬だけ輝く瞬間が描かれる。そこからE♭→Fmと沈み込み、暗がりに引き戻される動きと、「消え去る」という言葉が一致する。ところが最後の「に」で再びA♭に開ける。この「に」は次の文への接続詞であると同時に、暗闇の中にかすかに残る光の残照のように機能する。ろうそくの炎が消える寸前にひときわ明るく燃え上がるような。

そしてこの後《神に捧げるのだ 全力を》に続くことで、印象が一変する。光が消え去る《間際》は絶望の淵ではなく、最後の全力を捧げるための舞台だったことがわかる。

***

*修辞/言語的に…

《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に》
この一行が美しいのは、失われていく過程そのものを描いているからだと思う。


《栄光がこぼれ落ちて》は、栄光が一瞬で消えるのではなく、「こぼれ落ちる」という、ゆっくりとした、しかし止められない喪失の過程。「こぼれ落ちる」は液体の動きの語彙であり、手のひらから水がこぼれるように、掴もうとしても指の間からすり抜けていくものの描写。

《栄光がこぼれ落ちて》は、比喩として異例の結合。栄光はふつう「勝ち取る」「手にする」「輝く」ものであって、「こぼれ落ちる」ものではない。この結合が、栄光という抽象的な概念を硬い達成物から液体的な流動物に変換し、それによって喪失の過程に身体的な手触りを与えている。


《光が消え去る間際に》

「光が消える」ではなく、《消え去る》。「消える」が単なる現象の描写だとすれば、「消え去る」はどこか人格的で、光が自らの意志を持って遠ざかっていくような印象。光が自分に背を向けて立ち去っていき、置いていかれる側の孤独や寂しさが生まれる。

そして「去る」には不可逆性がある。「消える」なら、ふっと消えてまた灯るかもしれないが、「消え去る」だと、二度と戻ってこないという覚悟が含まれる。去った者は帰ってこない、という永訣の感覚。

また、「消える」は一瞬の出来事にも聞こえるが、「消え去る」は光が徐々に遠のいて、最後に見えなくなるまでの時間の幅を感じさせ、だからこそ《消え去る間際に》という言葉が生きてくる。完全に去ってしまうまでのわずかな猶予、最後の一瞬にすべてを捧げるという切迫感が、「消え去る」だからこそ成立している。

単に「光が消え去る」ではなく、消え去る《間際に》。まだ完全には消えていない。消える直前の、最後の光がまだある瞬間。この「間際」という時間の幅が決定的。完全に消えた後ではなく、消える直前。まだかすかに光がある——しかしそれが消えることは確定している。もう止められないがまだ終わっていない、という二つの時間感覚の共存が、一行の中に張力を生んでいる。

完全に満ちているものは美しい。しかし失われつつあるものには、それとは異なる種類の美しさがある——これは人間が美を感じる根源的な構造の一つ。桜が美しいのは散るから……というのは使い古された言い方だが、この一行で起きていることはそれよりもさらに具体的。散る瞬間ではなく、散る間際。まだ枝についているが、次の風で落ちる。その最後の一瞬に美が凝縮される。


そしてこの一行が、この曲の中に置かれていることの意味。敗北が確定しつつある試合の中で、まだ完全には終わっていない最後の瞬間。この瞬間に行われるのが、《神に捧げるのだ 全力を》。もっとも美しい時間の中で、もっとも完全な明け渡しが行われる。

ここに、この一行の美しさのもう一つの層——そして決定的なファクター——がある。喪失の美しさと献身の美しさが重なっている。《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際》——すべてが失われつつある間際に、残りのすべてを捧げる。自分が失いつつあるものを惜しむのではなく、失いつつある自分ごと差し出す。自己の喪失と自己の贈与が同時に起きている。こぼれ落ちていく栄光を掴もうとするのではなく、抵抗するのではなく、こぼれ落ちるに任せて、この手で全力を捧げる。

ここでは、自己保存の論理が完全に停止している。人間はふつう、失いつつあるものに対して二通りの反応をする。取り戻そうとするか、失うことを嘆くか。どちらも自己を中心に据えた反応であり、失われるものを「自分のもの」として扱っている。ところがこの歌詞で起きているのはそのどちらでもなく、《神に捧げる》——失いつつある自分自身を、自分のものとして保持することをやめて、そのまま差し出すという運動。喪失と贈与が別々の行為ではなく、未分化な一つの運動になっている。失うことがそのまま捧げることであり、捧げることがそのまま失うことである。

すべてを失いつつある人間が最後の全力を《捧げる》とき、そこにはもう自己を守るものが何もない。鎧も戦略も自意識もない。あるのはただ、相手の存在に触れられて動かされている自分だけ。自我が機能を停止した瞬間に、かえって何かが完全に実現する。

崩壊と明け渡しと解放が同時に起きている、一瞬。自我が砕ける瞬間に到来する何か——相手の存在に触れられるということそのものの純度。自我が機能を停止することによって、自分と相手の境界を維持する力が失われる。すべての制御が手放され、すべての鎧が剥がれ、残ったものが捧げられる。その裸の瞬間の美しさ。


***


やっぱり《負けというゴールに向かっていく試合》と対応して見えるなぁ…
この部分と対になるであろう《全力の 闘いの その果てでもがき輝く/夢を見届けよう》の美しさも大好きなので、また今度書きたい。


● 156
テニプリの他のキャラソンで、「for Yourself」のように「二人の別離」を歌ったもの…

自分がぱっと思いつくのは「Last Phase」と「たとえば今...」で、この2曲はデュエットソングの性質上、二人が別離に合意しており、別離の目的も示されている。

「Last Phase」——

《今 絶対的な距離から さあ 相対的な距離へ
 未来の姿 未来の姿 思い描いて
 今 決定的な言葉は もう 想像しなくていい
 同じ思いを 同じ思いを 信じて》

《願わなかった形》で始まった関係だから、かつては《絶対的な距離》——心と心の断絶があった。しかし今では、距離は相対的なもの、物理的なものにすぎない。換言すると、心と心は「絶対的な絆」で結ばれている。二人が交互に歌う形で《未来の姿》と《同じ思いを》がそれぞれ二度リフレインされることで、それらが文字通り未来へ進むための《同じ思い》——二人が共有する感情だというメッセージが修辞と音楽の両面から強化される。

(これは完全に余談だけど、この曲の作詞の大部分は増田さんによるもので、しかし「絶対的な距離/相対的な距離」は津田さんが考案され、これらのフレーズが出てきたことから曲の全体像が定まった……と配信でお話しされていて、興味深かった)

「たとえば今...」——

《「逢いたい」と想う人がいる
 弱さじゃない 強くなる為に
 たとえば今、ふたりの背負うものが変わっても
 たとえば今、ふたりの道が二つに別れても
 離れない 永遠に》

こちらはもはや説明不要なほど明白に、やはり「別れても魂は離れない」という相互の紐帯の、もとい愛のポエトリー。逢うために別れる。離れはしない——《絶対に》、《永遠に》。ここでは、別離はむしろ心と心の結びつきを強調する。「会いたい」ではなく《逢いたい》、「思う」ではなく《想う》が意図的に選ばれており、これはもちろんロマンティックな邂逅でもある。

では「for Yourself」はどうか。

《We Go Further Away
 俺もまた“その先”を探し続ける
 去りゆく背を見つめて 誓うよ
 Let Me Set You Free
 それでいい これからは自分の為に
 歩め Living for Yourself》

《We Go Further Away》——曲全体を通して《You Go Further Away》と繰り返されてきたフレーズの人称が、ここで初めてYouからWeに変わる。相手が遠ざかるのではなく、二人が遠ざかる。しかし「together」ではない。《Further Away》は離れていく方向を示すのみであり、二人が同じ方向に離れていくのか、互いから離れていくのか、文法的に確定しない。この不確定性そのものが、関係の形態を示しているとも取れる。共にいるのでも完全に別れるのでもなく、離れていくという運動だけを共有している。

《去りゆく背を見つめて 誓うよ/Let Me Set You Free》——去っていく相手に向かって《誓うよ》と言う。《Let Me Set You Free》がその誓いの内容だとすれば、《去りゆく背》に向かって「君を自由にさせてくれ」と誓っていることになる。これは少し奇妙である。なぜなら、《君》はもう自分の足で去っているのだから。

文字通りに考えれば、相手はすでに自分の意思で去っている。握手を拒否して背を向けて歩いていく。それは少なくとも外形的には、許可を必要としない行為。立ち去ることを自由に選んでいる。

にもかかわらず、その背中に向かって《Let Me Set You Free》と言う。これは、相手が自分で去っていくという事実が、「自由になった」ことを意味しないから。去ることと自由になることは、同じではない。《君》は去った、しかしまだfreeではない。

だから《Let Me Set You Free》は、《去りゆく背》に向かって発せられることによってむしろその本当の意味が露呈する。相手を束縛しているのは、物理的な拘束ではない。物理的には出ていけるのに自由になれないのは、檻が外側にではなく内側にあるからで、その檻の正体が自分自身の存在であることを知っている——だから《Let Me Set You Free》と言う。

《それでいい これからは自分の為に》——「Last Phase」のように同じ思いを拠り所に未来へ進もうとするのでもなく、「たとえば今...」のように永遠に離れない心を感じ合うのでもない。物理的な別れに際して心と心の結びつきを確かめるのではなく、むしろその癒着を解体しようとしている。相手を檻から出すため、《自分の為に》生きてもらうために。

だけど、この誓いは届かない誓い。去りゆく背中に向かって心のうちで発される言葉は、相手に届く回路を持たない。この心と心の距離、想いの一方通行性が、上の2曲と決定的に異なる部分。



この場面、アニメにはなかった《Let Me Set You Free》が入ったことで、屈折が増している。
《それでいい》は自己完結できるけど、《Let Me Set You Free》は相手に応答を求める言葉。だけど相手は去っていき、応答はもらえない。

***

他にソロ曲で「二人の別離」を歌ったものってあるんだろうか。いや私が知らないだけできっと存在してるんだろうけど(なんせ1000曲近くあるわけだし)
「Entrust to the Next」とかも思い浮かんだけど、これは別れというより「魂の継承」だからなぁ
「エピローグ」はさすがにちょっと文脈と事情が違いすぎるし…


● 154
細部の訂正

前に「どれほど強い全力であっても、『捧げ物』である限り、それは自分の力を相手の手の中に置く行為」と書いたけど、宗教的な「捧げ物」のコロケーションとして自然なのは「手の中に置く」ではなく「足元に置く」ですね。(修正しておいた)

lay it all at his feetやlay at the feet of the Lordという表現もある。イエスの足元に香油を注ぐ、使徒の足元に献金を置く、マグダラのマリアがイエスの足元に跪く…。捧げ物(offering)の本質は人間の側からの謙遜・服従・崇敬を表す行為であり、「足元に置く」という身体的動作によって神と人間の位階の差を体現するわけである。

《友情あればこそ 今 本気で勝ちたい》と《神に捧げるのだ 全力を》の並立の異常。一見して目につきやすい「友情」と「神」の異質さ以上に、「勝ちたい」と「捧げる」の矛盾がより深刻だと思う。しかも記述順として、「神に捧げる(非対等)」から「友情があるから勝ちたい(対等)」への修復という“健全”な物語動線ではなく、逆のルートを進んでいる。

「異常」という表現は、それこそが魅力の源泉だという意味で使っています。正常さに回収されない美しさが好きなので。


● 152
ふと思ったことのメモ。

《いつもおまえがいるから 夢を思い出す》

この文から導き出される帰結として、《夢》は《おまえ》と不可分である。

これは仮にキャラクターや物語の背景を排しても、この一文の言語的構造のみによって成立する純粋な論理。
夢を思い出すのはいつも、おまえがいるから。おまえがいないときは、夢を思い出さない。つまり、おまえの存在が夢の想起の条件である。

であれば、《いつもおまえがいるから 夢を思い出す》は、「いつもおまえがいるから おまえを思い出す」という循環的構造を含んでいることになる。

夢はおまえなしには想起されないものであり、おまえと夢は不可分に結びついている。
不可分に結びついたものを「思い出す」とき、思い出されているのは夢であると同時におまえである。

しかもこの文には《いつも》がある。たまたまではなく、常に。この恒常性は、おまえと夢の結びつきが偶然的なものではなく構造的なものであることを示している。

また、「おまえがいるからおまえを思い出す」が循環であるということは、この文に外部がないということ。おまえの存在が喚起するのはおまえであり、おまえ以外のものに開かれていない。夢という語が一見外部への開きを持っているように見えて、実際にはおまえに収束する。閉じた円環。

語り手はこの円環の中にいる。しかしこの円環の閉じ方が、見えていない。なぜなら語り手の主観においてこれは《夢を思い出す》経験であり、「おまえを思い出す」経験としては知覚されていないから。《夢》という語が、円環の閉じた構造を語り手自身から隠している。


…だから何か、というのは後で考える。
なお、これはキャラクター論ではなく、あくまでもこの「文」のみから導出される論理の記述。


● 150
前に作詞者の意図云々という話を書いてしまったけど、本質的にそういうことじゃないよな。書かれた意図にかかわらず、結果としてテクストから必然的に立ち上ってくるものが美しい。究極的にはこれがすべて。
そのうえでもちろん書き手への畏敬の念もあります。


● 149
《底力の さらに底が開く
 来いよ おまえの手で 確かめろ》

ここ、前に(主として声の印象から)「不意の攻め感」という印象を書いたときにも自分で矛盾を感じていたんだけど、言っていることはむしろ徹底して受動的なんですよね。
開いてしまった自分に相手を招き入れる側の言葉。受動的な欲望を能動的な表現と声の力強さで包んでいる感じ。
ちょっと点検し直してみる。

***

《底力の さらに底が開く》

底力の《底が開く》というのは、自分の内部の最も深い場所が開放されるということ。「底を開く」ではなく《底が開く》——つまりここでの《開く》は自動詞の用法で、自分で意思的に開いているのではなく、開いてしまう。自分の最も深い部分が、勝手に開く——この試合の中で、この相手を前にして。自分の内部の最深部が自分の制御を離れて開放される、という受動的な体験。

そしてその直後に《来いよ おまえの手で 確かめろ》がくる。底が開いた状態で相手を招く。俺の内部が開いた、だから来い、おまえの手で確かめろ——開いた自分の内部に相手の手を招き入れる、という構造。

「おまえの本気で確かめろ」でも「おまえの力で確かめろ」でも「おまえの目で確かめろ」でも成立するが、選ばれているのは《手》である。目で確かめるのではなく、手で確かめてほしい。見ることではなく触ることで。身体的な触知を求めている。(しかし「for Yourself」の応答は「見据える」「見届ける」「見つめる」…)

歌詞として巧妙なのは、この招きが文法上の命令形で発されていること。《来いよ》《確かめろ》と、口調は完全に能動的で、挑発的ですらある。自分の内部が開いてしまったという受動的な事態を、相手に挑みかかる能動的な命令として言い直している。

開かれてしまった自分を差し出すという受動的な欲望を、《来いよ》という能動的な命令に翻訳することでしか表現できない。というより、それが受動的な欲望であることを認識していない。本人の意識においては、この表現は挑発であり、闘志によるもの。しかしテクストが実際に描いているのは、開いた自分の身体に《おまえの手》を求める行為である。


《底力の さらに底が開く》は、一見すると不思議な表現。

「底力」という語は、それ自体がすでに最後の力を指す。もうこれより下がない場所の力。通常であれば「底力を出す」「底力を振り絞る」だけで極限の表現として完結する。

しかしこの歌詞は《底力の さらに底が開く》と言う。底の、さらに底。底だと思っていた場所にさらに底があり、しかもそれが「開く」。これは底力を「出す」のとは全く異なる事態。力を振り絞るのは主体の能動的な行為だが、底が「開く」のは、自分の内部で何かが起きてしまうこと。自分が知らなかった自分の深さが、自分の意思とは無関係に露呈する。

ここには二重の驚きがある。まず、底だと思っていた場所が底ではなかったという自己認識の崩壊。自分で自分の深さを把握できていなかった。そして、その未知の深さが「開く」という形で出現したこと。自分の中に自分の知らない場所があり、それが勝手に開く。次段の《なぜだ闘いながら 強くなるのは》の《なぜだ》という自問からも、この開きが未知のものだったことがわかる。

そしてこの《底が開く》の直後に、《来いよ おまえの手で 確かめろ》がくる。この接続を改めて見ると、底が開いてしまった直後の言葉として、これは単なる挑発ではなく、懇願に近い構造を持っている。

俺の中の未知の深さが開いた、自分でもそれが何かわからない、だから《おまえの手》で確かめてくれ——自分では把握できない自分の深さを、相手の手によって確認してもらうことへの希求。自分の内部の未知を、相手に触れてもらうことで初めて知ることができる。


自我の制御が及ばない深さが自分の中にあり、それは自我が砕かれることによって初めて開く。底力の底は、自我の底でもある。自我が管理している領域の下に、自我の知らない場所がある。

それが開くためには自我が砕かれなければならず、砕いたのは《おまえ》にほかならない。そしてその開いた場所を確かめられるのもまた《おまえの手》だけである。砕く者と確かめる者が同一であるという構造。壊した相手にしか見せられない深さ、壊した相手の手でしか触れられない場所。これは暴力と愛撫の区別がまだ存在しない場所でもある。

「底力のさらに底が開く」が不思議な表現に聞こえるのは、通常の語彙体系の中にこの体験を収める場所がないからかもしれない。底力という既存の語の「底」を文字通りに割って、その下にもう一つの空間を出現させている。言葉自体が、歌詞が描いている事態そのもの——自分の底を割って未知の深さを露呈する——を実演している。

***

最初の直感よりもだいぶエロティックなところに着地したな。
この未知への混乱のようなくだりのあと唐突に《いつもおまえがいるから 夢を思い出す》がくるのがおもしろいんだけど、それはまた今度。


● 146
《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に
 神に捧げるのだ 全力を》

《光が消え去る間際》は、光はまだ消えていないが、これから消えることが確定している表現。
原作の真田が跡部の試合を見ながら呟いていた、《負けというゴールに向かっていく試合を奴は戦っているのだ(9巻p.27)》というセリフを思い出す。これは《負けというゴールに向かっていく試合》——まだ負けていないが、これから負けることが確定している試合——を経験したことがある人の言葉だろう。(余談として、「負けというゴール」はこの回〈79話〉のサブタイトルにもなっている。)

地味ながら決定的に重要なのは、この試合で実際には跡部は負けなかったという事実。つまり、《負けというゴールに向かっていく試合》は、客観的な試合の分析としては誤りである。にもかかわらずわざわざそれを真田に言わせ、サブタイトルにまで据えている。この言葉は読者に試合の分析を示すものではなく、真田の認識の枠組みを示すものだろう。

《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に/神に捧げるのだ 全力を》——これは《負けというゴールに向かっていく試合》の中での行為の記述として、少なくとも矛盾なく対応している。《光が消え去る》ことは確定している、《栄光》はすでに《こぼれ落ちて》いる、その中で「全力を捧げる」というゴールへ向かう。

神に捧げるのだ、《全力を》——勝てるかもしれない状況での全力と、負けが確定している状況での全力は、質が異なる。後者における全力は、結果を変えるための手段ではなく、それ自体が目的であり意味である。「捧げる」という語はまさにそれを表現するのに適している。捧げ物は、何かを得るための手段ではなく、捧げる行為そのものに価値がある。

勝てないという現実の中で残された行為が《捧げる》——もはや勝利のためではなく、ただ全力を捧げるという行為そのものの価値へと移行している。勝利を目指す戦いから、奉献としての戦いへ。


ここでさらに思い出されるのが、「STRENGTH」での作者コメント。

(全国前の時点で、真田がより「勝ちたい」と思っていたのは幸村と手塚のどちら?という読者の質問に対して)
《手塚です。幸村とは幼少からライバルとして切磋琢磨していて、いつしか勝たない方が良いとさえ思い始めました。彼が病気で倒れてからは自分が強くなることで幸村の強さを守ろうとしてました。》

二文目と三文目の間には、脈絡が欠けている。

質問が聞いているのは「どちらにより勝ちたいか」という二択で、二文目まではその質問に答えている。「手塚の方に勝ちたい(二択の答え)、なぜなら幸村には勝たない方が良いと思っているから(その理由)」。

三文目の《彼が病気で倒れてからは自分が強くなることで幸村の強さを守ろうとしてました》——これは「どちらに勝ちたいか」への回答ではない。「勝ちたくない理由」の補足ですらない。「勝たない方が良い」の理由は二文目で説明済み——幼少からの関係があるから。
三文目は、質問されていない情報を付け足している。「勝ちたいかどうか」の話をしていたのに、なぜか「真田が幸村に対して何をしていたか」の話に移っている。

「勝たない方が良い」と、「自分が強くなることで相手の強さを守る」が、どうして並置されるのか。一見すると脈絡がないが、わざわざ後者が三文目として付け足されている以上、そこには論理のつながりがあると考える方が自然である。

 とすると、「勝たない方が良い」と「自分が強くなることで相手の強さを守る」は、同じ感情(動機)の二つの面としてつながっていると考えられる。ここで考えられる「同じ感情(動機)」とは、「勝たない方が良いのは、自分が強くなることで相手の強さの基準を高く保つ」というもの。つまり、【強くなった自分が相手に負けることで、相手の強さの価値を証明できる。だから勝たない方が良い】というロジックではないか。  
 
勝たない方が良いのは、単に関係を壊したくないからではなく、自分が強くなることで相手の強さの基準を高く保つという積極的な動機によるもの。勝たないことが消極的な回避ではなく、能動的な献身であることを作者は示したかった…という読み。


仮にこの構造が正しいなら、ここでの強さの追求は相手に勝つためのものではなく、相手に負けることの価値を高めるためのもの。強くなって勝つためではなく、強くなって負けるための。

勝ちたくないが、弱くもない。むしろ強くなりたい。しかしその強さは相手を倒すためではなく、相手の強さを支えるために使われる。より強い自分を差し出すことで、相手の強さをより高く証明する。

…これは《神に捧げるのだ 全力を》の構造そのもの。勝利のためではなく、勝てないことがわかった上での、奉納としての全力。作者コメントはこれを「守る」の一語で表現している……のかもしれない。

どれほど強い全力であっても、「捧げ物」である限り、それは自分の力を相手の足元に置く行為であって、相手を打倒する行為ではない。だから負ける。その力が「捧げる」という志向を帯びている限り、相手を倒す力にはならない。



…みたいな構造が読み取れてしまうからこそ、《友情あればこそ 今 本気で勝ちたい》という、少年漫画的に100点満点の王道であるはずのフレーズがむしろ違和感をもって聴こえるわけです。
前に書いた「家臣なら主君に勝つ必要はない」という比喩も同じことで、家臣の強さは主君の威光を守り高めるためのもの。部長と副部長の関係は本来これとは違うはずだけど、「副部長の自分が強くあることで、(病中不在の)部長の強さを守る」というロジックはまさに「主君の威光を守るための家臣の強さ」。


● 145
これも結論は出ていないメモ


Let me set you freeという表現が使われる場面について少し調べてみた。最大文脈はラブソングや恋愛の詩で、その次が宗教的文脈(主にキリスト教、特にプロテスタント)。「私(=神)があなたを罪や苦しみから解放する」という霊的な救済の呼びかけ。おそらく聖書の《The Truth will set you free》と直接的なつながりがある。

後者においては、let meの「許可を求める」ニュアンスこそが神学的に重要な意味を担っている…らしい。全能の神があえて人間に許可を求めるという構図が、人間の自由意思の尊重と神の謙遜な愛の表現になっている、という見方。

たとえばこういうの。神の言葉として語られているもの↓
《Take me into your heart and life, let me set you free from the darkness that surrounds and fills you, for I too have been there.》
(あなたの心と人生に私を迎え入れなさい。あなたを取り囲み満たしている闇から、あなたを自由にさせてほしい。私もかつてそこにいたのだから)

ここではlet meの入れ子構造——以前書いた「君を自由にすることを、俺に自由にさせてくれ」というパラドックスが、単なる言い回しの問題ではなく、信仰の核心そのものに触れている…ということになる。

なんか昔キリスト教の授業で習ったことを思い出した。特にプロテスタント的な信仰においては、「神は人間の自由意思を尊重する」という考え方が非常に重要だという。なぜなら神は全能であり、望めば一方的に人間を救うこともできるはずだが、人間の側が心を開いて受け入れなければ救いは成立しない…みたいな前提。
だから神の語りかけはI will set you free(私があなたを自由にする)という一方的な宣言ではなく、Let me set you free(私にあなたを自由にさせてほしい)という形を取る…のかな?

仮にこの文脈であの歌詞を読み直すとだいぶ印象が変わるけど………
…「神からの語りかけ」の場合は、相手を束縛しているのは神ではない別の誰か(何か)であるわけだから、あの歌詞の読みとしては妥当ではない気がする。ただし、こういう宗教的な文脈があることも踏まえた上で《Let Me Set You Free》という表現が選ばれた可能性はある。

***

それにしても…そもそも原作のあの場面に《Let Me Set You Free》とか《これからは自分のために》みたいな感情が書き込まれていたのかどうか、正直私にはまだよくわからない…。アニメ版でかなり踏み込んだ解釈をして、歌詞はさらにもう一歩踏み込んでいる、という印象。

ただ、あそこで握手を求めて拒まれるという描写は原作には存在しなかったけど、その後の世界大会では原作で「拳を合わせる」場面が超エモーショナルに描かれて、しかも4歳の頃のハイタッチの場面まで重ねられて、「手と手の接触」の非常に美しい円環的な完成がなされている。それが何を意味するかはさておき事実のメモとして。

***

《Let Me Set You Free》のフレーズがなければあの2曲にここまで興味を持っていなかった。キャラクターの熱心なファンではない人間にすら強く作用する力があるんだと思う。この表現自体は一般的だけど、あの曲のあの歌詞のあの流れの中に置かれることがすごく異質。


● 144
結論は出ていない覚え書き


《底力の さらに底が開く
 来いよ おまえの手で 確かめろ》

「for Yourself」の歌詞は明らかに「黒色のオーラ」の歌詞を参照して書かれているのに、こんなに明確な相手からの「誘い」への応答が書き込まれていないのは少し不思議にも感じる。

《手で》確かめろ——視覚ではなく触覚で、身体的な接触によって確認しろと言っている。だけど「for Yourself」が語るのは、《夢を見届けよう》。「見届ける」は、相手から距離を置いて、最後まで目で追うこと。触れはしない。この曲に出てくる身体感覚は、額をかすめるボールと頬を打たれた記憶で、いずれも受動的なもの。
歌詞の中では自分から手を伸ばしていない……けど物語の中では、自分から手を伸ばして接触を拒まれている。

《頬に覚えた熱い痛み》は、頬の記憶であると同時に、自分を打った手の記憶でもある。

「自分の目で確かめろ」は定型的表現だけど、「手で確かめろ」は珍しい。
アニメ版の試合後のモノローグは、《俺には、その手を握る資格は、まだない》。歌の中で《おまえの手で 確かめろ》と求めた「おまえの手」を、現実には拒絶している。歌詞の中の「手」と試合後の「手」が、求めることと拒むことという正反対の身振りで対応している。

「触れたいけど触れてもらえない」と「触れられたいけど触れてもらえない」。


● 143
《栄光がこぼれ落ちて 光が消え去る間際に
 神に捧げるのだ 全力を
》

《全力の 闘いの その果てでもがき輝く
 夢を見届けよう
》

おそらくは同じ場面を歌っている。

自分では《光が消え去る間際》だと感じているものが、相手からは《もがき輝く夢》に見えている。
自分の中では消えかけている光が、相手にとってはまだ輝いている。
喪失の瞬間が——第三者からは《無残だったよね(原作3巻p.159)》と言われるほどの一方的な敗北が——ただ一人の目には、美しい瞬間として映る。

《もがき輝く》という表現、(残酷でもあるのに)すごく愛があっていいなぁと思う。

***

「捧げる」→「見届ける」という授受……いや、受け取っているかどうかは微妙か。


● 142
主導権の下降線のようなもの…


《来なよ本気で 轟く咆哮に大地がうなり声を上げた》
《不意にボールが 額かすめて世界を切り裂いた》

《来なよ本気で》と招いておきながら、実際にそれが“来た”瞬間には《不意》をつかれている。自分が招いた攻撃に自分で驚いている。準備できていなかった、目を疑った……主導権が揺らぎ始める。

《強さも脆さも 誰よりもそう知っているよ》
《底の知れない 何かが黒色のオーラを纏い覚醒する》

目の前のそれを「底の知れない何か」としか表現できない……《誰よりも》全部知っているつもりだった相手を、名指すことすらできなくなっている。《知っている》から《底の知れない》への反転、あるいは転落。

《恐怖を抱いた 自分にももう余裕はない》

主導権の喪失の明示。


また、この曲には疑問符が二つ存在する。

《俺たちに 遠慮とか容赦なんかは 必要ないだろ?》
《絶望さえ 君は打ち砕いたのかい?》

一つ目はおそらく修辞的な疑問で、必ずしも答えを求めていない。あるいは自分自身の心への問いかけ。
二つ目は本当の問い。《のかい?》という語尾には、純粋な驚きと困惑がある。答えを知らないから知りたい、確信を持てないから知りたい、という欲求。

二つの疑問符の間に、認識の崩壊のようなものがある。最初の疑問符では、まだ修辞的な問いを投げかける余裕がある。二つ目の疑問符では、本当にわからないことを問うている。余裕のある問いから、切実な問いへ。

***

この曲には知覚と認識の動詞が多く出てくる。

《見据えるのは 熱く真っ直ぐな精神(こころ)》
《強さも脆さも 誰よりもそう知っているよ》
《信頼も 葛藤も きっとお互い
 言葉にはしないけど 感じるよ》
《全力の 闘いの その果てでもがき輝く
 夢を見届けよう》
《去りゆく背を見つめて 誓うよ》

これらによって曲全体が全知的な視線を持ち、理解する側/把握する側/観察する側から見た景色を映している。
(対照的に、「黒色のオーラ」にはこの種の表現がまったく登場せず、大部分が動作・行為として書かれている。《行くぜ》《壊せ》《振り切るぜ》《立ち上がれ》…)

だけど《不意に》の一語が、認識の優位に亀裂を入れる。

《不意にボールが 額かすめて世界を切り裂いた》

これは認識の中の出来事ではなく、身体の上に起こった出来事。視覚ではなく触覚。観察者が被接触者へ。
自分が支配しているはずの知覚の《世界》を、《ボールが切り裂いた》——身体的な衝撃を伴って。支配者の領域に亀裂が走った瞬間。
触覚による身体の記憶を語っている場面は、ここともう一つ。

《あの時 たった一度だけ
 頬に覚えた熱い痛み 生きている証》




…しかしいかに主導権が下降線を辿るように見えようとも………原作ではページをめくった瞬間に7-1で勝負が決している。
あのあっけなさ…

***

読めば読むほどよくできてるなぁと感じる。テクストとして楽しすぎる。
そして“観察者”の歌なのにジャケットでは目を閉じているという…あの絵、やっぱりすごく気になる


● 140
前にも少し書いたけど改めて。


◇前提:原作では無言の1コマ。

◇アニメ版のモノローグ:
《これでいい… これからは君自身のために歩め、真田…》

◇歌詞:
《Let Me Set You Free
 それでいい これからは自分の為に
 歩め Living for Yourself》


アニメでの「これでいい」を、歌詞では「それでいい」と言い直している。

もし意図的に原作の全国大会決勝で「真っ向勝負」を捨てさせた後の《それでいい………》というモノローグに引っかけたものなら、この歌詞の中で最も周到に仕掛けられた引用だと思うし、偶然なら奇跡だと思う。

同じ「それでいい」が、原作と歌詞のそれぞれで、正反対の意味で発せられている。原作では「俺の命令通りに自分を殺したおまえ、それでいい」、歌詞では「俺から離れて自分のために歩くおまえ、それでいい」。同じ言葉が、束縛の肯定から解放の肯定へと鮮やかに反転している。

同じ言葉を使いながら、その言葉の意味を自分で書き換える。これは自己認識の変化の刻印でもある。かつて自分が発した言葉の残酷さを——おそらくは意識的に——知った上で、同じ音に別の意味を込め直している。「俺はかつておまえにあの言葉を言った人間だ。しかし今、同じ言葉で別のことを言う」。

かつての「それでいい」は、承認の言葉。《それでいい これからは自分の為に/歩め》は、かつての承認の構造そのものの解除。もう「それでいい」と俺に言われるために動かなくていい、俺の承認を必要としない場所へ行け、という。

「これ」が目の前の状況を指すのに対し、「それ」は相手の側にあるものを指す指示語でもある。「これでいい」は自分の判断を肯定しているが、「それでいい」は相手の選択を——握手を拒んで去っていくという選択を、肯定している。主語が自分から相手に移っている。「自分の為に歩め」の前置きとして、すでに相手の自律性を認める語が選ばれているともいえる。

「これ」と「それ」の一文字の差に、全国大会(以前?)から合宿初期までの二人の関係の変化の全体が折り畳まれている…というギミック。なんて巧妙な。
意図的か否かにかかわらず、構造として不可避的にそう機能するようになっている。

***

「for Yourself」、歌詞は切ないし歌い方は凛々しいけど、いかんせん声質がかわいすぎるために、かわいい。特に2番のサビの声がずっとかわいい。
あの曲に限らず、言語的情報と聴覚的情報の落差で脳がバグる快楽そのものが醍醐味、みたいな。


● 132
《久しぶりだね こんなふうに二人で向き合うのは
 来なよ本気で 轟く咆哮に大地がうなり声を上げた
》

《容赦のない 神の領域へと
 行くぜ おまえだけに 逢うために
》

《底力の さらに底が開く
 来いよ おまえの手で 確かめろ
》


基本的に、対等ではない男同士のモチーフが好きだけど、
この2曲を聴いていると、対等になろうと必死でもがいている男(同士)のよさを教えられる気分。それもまた非対等の一形態だが。

初めから終わりまでずっと「挑戦」を語っている詞が、《来いよ おまえの手で 確かめろ》の部分だけ「挑発」になる。盤石だった権力関係にほんの一瞬ヒビが入るような、不穏な空気にぞくっとさせられる。原作の描写もしかり。
別の表現をすると、「不意の攻め感」を感じる。
あとシンプルに声が超かっこいい、《確かめろ》の語尾が色っぽい。

それにしても、《来なよ》は《行くぜ》と呼応してるのに、《来いよ》には応答がないんだな…
《夢を見届けよう》は観客席に座っているような響きもあるし。示唆的に見える。



被支配/被破壊の快楽は人間の根源であると同時に、健全な主体を脅かすタブー。しかし「健全な主体」というもの自体、それが壊される快楽のために作り出される仮構。ということも本当はみんな知ってるけど公然の秘密。うるせえもっと正直に言え という気持ちが、この2曲にやたら惹かれている理由の一端である気がしてきた。原作より色々と正直だから。

支配は、相手が抵抗するから意味がある。相手が「くやしい」と思うから優位に立てる。そして被支配の快楽も、自分の意思や心を折られることで成立する。“誇らしい自己”が強固であればあるほど、折られる快楽も深くなる。


● 130
「黒色のオーラ」を直球激烈ラブソングと形容したけど、告白は告白でも、愛の告白というより存在論的な依存の告白のように見えてきた。ラブソングという表現は、間違いじゃないけど本質ではない。

《いつもおまえがいるから 夢を思い出す》

存在論的依存…だからこそ「君を自由にさせてくれ」と返されるんだろうけど、これはちょっともう「切り離されたら自分が誰だかわからなくなる」くらいの話なのでは。

(追記)
依存というより「癒着」のほうが正確だろうか…
自我以前の問題というか。


● 125
《願い裏腹にちから 奪い取られても》

この1行だけなら単純にイップスに陥っていく描写だけど、文脈を見ると少し印象が変わる。

《友情あればこそ 今 本気で勝ちたい
 願い裏腹にちから 奪い取られても》

《本気で勝ちたい》と願う精神力としての《ちから》ごと《奪い取られて》いるようにも見える。勝つ力よりも、勝ちたいと願う力が萎えていく描写。

過去の戦績や数値データ上ではそこまで極端に実力の差があるわけではないのに勝てないのはなぜか、という考察・分析をいくつか読んで、どれも納得できる内容だったんだけど…
あの二人の場合は他の何より根本的かつ絶対的な理由として、【屈強な男が綺麗な美少年に敵わず絶対服従している、という構図が気持ちいいことを描き手も読み手も知っているから】というのがあるだろう、とも思う。その快楽/欲望に強く駆動されている。

ものすごく強くて敵わないのに全然“男らしく”なくて綺麗でかわいい、なんて子が幼い頃からそばにいたら、この子には勝たないほうがいいのかも…という気持ちになるのもわかる気がする。かわいいのに強い、俺よりずっと男らしくないのに俺よりずっと強い、で認知的エラーが起こる。だから自分の価値観や道徳律の埒外にある特別な存在とするほうが、本気で競い合って負けるより心理的な負荷が小さい。昇華と合理化が同時に起こってしまう。

そしてそういう関係が長く続くほど、「勝ったら関係が変わってしまう」「勝てない自分でいるほうがこの関係を維持できる」という無意識の計算も働くようになる。もしかしたらお互いにそうかもしれない。だけどそのまま何も言わずにいると、今度はその沈黙が長く続くほど、二人の間に見えない溝が広がっていく。

《絶望さえ 君は打ち砕いたのかい?
 恐怖を抱いた 自分にももう余裕はない》

このシーンを原作で読んだとき、《恐怖を抱いた》以上に、《自分の眼を疑った》という表現が印象的だった。いずれにせよ、作中でそう頻繁には使われない三人称ナレーションの形で入れていること自体、「本人は自覚していないかもしれない無意識的な感情」を“わざわざ”描き込みたかったんだな、という印象。

「目を疑う」は、実際に見ても信じられないほど驚くこと。恐怖を抱いた自分自身が信じられなくなるくらい、それは想定外の事態だったということ。10(11?)年間の関係のなかで一度も経験したことのなかった綻びが今初めて見えたから、と解釈すると腑に落ちる。

***

少年漫画で男同士だから露骨には描かれないけど、外見的な美しさが人間関係に影響を及ぼさないなんてことは絶対にありえないわけで。アニメ版で初対面(?)の瞬間に笑いかけられて真っ赤になって照れる描写は原作より正直に感じた。


● 124
《見据えるのは 熱く真っ直ぐな精神(こころ)》
《頬に覚えた熱い痛み 生きている証》
《歩め Living for Yourself》

「熱さ」が共通し、《生きている》と《Living》が共鳴している。

《楽しい時 苦しい時 いつだって君がいたから
 今の俺があるさ》
《あの時 たった一度だけ
 頬に覚えた熱い痛み 生きている証》

この2つはある意味同じことを、違う形で言っている。「黒色のオーラ」で《あの日があるから今があるといつか振り向くなら/それは今日さ》が2回繰り返されるのと似ている。

「for Yourself」の歌詞は、ずっと相手への「語りかけ」になっている。《必要ないだろ?》から始まって、《久しぶりだね》《知っているよ》《君は打ち砕いたのかい?》《夢を見届けよう》…そして《歩め》で終わる。

ただし唯一の例外がCメロ。

《あの時 たった一度だけ
 頬に覚えた熱い痛み 生きている証》

ここは体言の羅列になっていて、「意味のある文」というより「スケッチ」に近い。この部分だけ、相手へのメッセージではなく、自分自身の中で心象を「ただ噛みしめている」ように聴こえる。
…でもちょっと、ここの内容を云々するのはあまりに野暮で無粋という感じがするので、保留。



《強さも脆さも 誰よりもそう知っているよ》
《楽しい時 苦しい時 いつだって君がいたから》
《信頼も 葛藤も きっとお互い
 言葉にはしないけど 感じるよ》

対義的な並列が多い、という事実そのものが《葛藤》の漏出っぽくもある。
だからジャケットの絵もあんなに詞の内容からかけ離れてるのか??(雑な飛躍)

並列のうち聴き手の印象に残るのは、《脆さ》《苦しい時》《葛藤》のほう。これらの一種ネガティブな情報だけでは口に出しにくいから、対義的でポジティブな概念とセットにすることで一般論的な響きに調整し、意味を和らげているとも取れる。


2026年に生きている自分は世界大会編以降の展開も全部知ってるわけだけど、2014年にこの歌詞を読んだ人はどう思ったんだろう。当時(12巻あたり)の状況で《夢を見届けよう》って言われたら結構寂しくないか…?


● 122
あえて和訳してみる。

《We Go Further Away
 俺もまた “その先”を探し続ける
 去りゆく背を見つめて 誓うよ
 Let Me Set You Free
 それでいい これからは自分の為に
 歩め Living for Yourself》


まず、英詞にする効果として考えられること…
当然ながら、日本語よりも意味が伝わりにくくなる。同じ内容を歌っても日本語より響きが和らぐ。あるいは、言いにくいことも少し言いやすくなるかもしれない。
キャラクターの心理として、聴く人に伝わりにくくなる。私もしばらく言葉の意味を意識していなかった(なぜかある日突然ふと、《Let Me Set You Free》ってスゴいこと言ってるな…と気を取られて興味を持った)。


《We Go Further Away》
直訳「俺たちはさらに遠くへ行く」
further awayには、「離れていく」ニュアンスもある。「俺たちは、さらに遠くへ、離れていく」。

曲の冒頭と1番・2番のサビで繰り返された《You Go Further Away》の変奏。You go further awayは、自分はその場に残っていて、相手だけが離れていくイメージ。《去りゆく背を見つめて》と響き合う。

go further awayは物理的な距離だけでなく、心理的な距離に使われることもある。疎遠になる、距離を置く、気持ちが離れる…

《去りゆく》相手を見送る——You go further away
《俺もまた “その先”を探し続ける》——ここが I go further awayなら、「君は俺から遠ざかり、俺も君から遠ざかる」ことになるけど、実際には I ではなく《We》が選ばれている。

We go further awayは二通りの解釈ができる。「お互いから遠ざかって離れる(We go further away from each otherの省略)」とも、「ここから離れて一緒に遠くへ行く」とも。この曲の状況的には前者の意味が正しそうだけど、文の構造的には後者として読むほうが自然でもあり、優しい曖昧さだと感じる。


《Let Me Set You Free》
直訳「俺に君を自由にさせてくれ」

直前で《誓うよ》と歌われている。「誓い」であればI willがもっとも自然に意味に合うのに、許可を請うLet meが使われている。

letの核にあるのは「妨げない」「そのままにさせる」こと。行為を阻まない、邪魔しない、自由にさせる、というニュアンス。だから「Let me」は、「俺がそうすることを妨げないで(自由にさせて)くれ」。
この原義に沿って読むなら、《Let Me Set You Free》は「俺が君を自由にすることを、妨げないでくれ」になる。
相手を自由にしようとするのと同時に、自分も自由にさせてくれと言っている。「君を自由にすることを、俺に自由にさせてくれ」。

なぜ「誓い」の意味にも合い文形としてもシンプルなI will set you free(俺は君を自由にする)ではなく、Let meを——「妨げないでくれ」の形を——使うのか。
素朴に考えるなら、何かに妨げられているから「妨げないでくれ」と言う必要がある。「俺は君を自由にしたい、でも何かがそれを妨げている、だからその妨げを取り除いてくれ」。

意思表示のI will set you freeは一人きりでも成立するけど、命令文のLet me set you freeはlet(許可)という行為を委ねる相手がいないと成立しない。自由に「させてくれ」と、誰に対して請うているのか…

自由に“させてくれ”の中に、色々な響きがある。許可を求める、懇願する、赦しを乞う……英語の「Let me」が持つ、あの宙吊りの感じは訳せない。


《歩め  Living for Yourself》
直訳「君自身のために生きろ」…としそうになるけど、逐語的には「君自身のために生きていること」

「歩め」は命令形なのに、命令形でLive for yourselfとは言っていない。Livingは命令というより、状態の描写に近い。「君自身のために生きている状態であれ」。あるいは「君自身の人生を歩め」。

「歩め」という日本語の命令形の後に、「Living」という柔らかい形が続く。命じているようで、命じきっていない。「生きろ」より、「生きていて」に近いニュアンス。

“生きている”は、もう一か所、《頬に覚えた熱い痛み 生きている証》にも出てくる。


「俺たちはさらに遠くへ 離れていく
 俺もまた “その先”を探し続ける
 去りゆく背を見つめて 誓うよ
 俺に君を自由にさせてくれ
 それでいい これからは自分の為に
 歩め 君自身の為に生きていて」


冷静に考えると、もしLive for yourselfだったら意味が重すぎるな。《友》の立場から命じることではない、普通は。
前置詞のfor以外はすべて語頭が大文字になっているのも気になる。「文章」というよりメッセージ、詩、祈り、みたいな。

タイトルがそうであるように、英語になっている部分がこの曲のメッセージの核心だと感じる。逆にいうと、核心ばかりが伝わりにくい形になっている。自分の気持ちの核心を伝えたいなら、日本語で直接的に言葉にしたほうが確実なのに。
伝えたいけど伝えたくない、伝えたくないけど伝えなきゃいけない、という《葛藤》を形式に映して表しているのだとしたら巧みだと思う。
Let me〜って、文形は「命令」/意味は「お願い」で、そもそも二律背反の響きがある。その意味でも絶妙。

***

2曲の歌詞を突き合わせて読むと、言葉や表現のレベルでは綺麗に呼応して響き合っているのに、そこから見えてくる心情は全然違っているのが面白いです。決定的な理由は自分でもよくわからないまま、やたら惹かれ続けている。


● 120
《Let Me Set You Free
 それでいい これからは自分の為に
 歩め Living for Yourself》

今までは誰の為にfreeでなかったのか、ということは言っていないのがずるい。しかし原作とアニメでは《部の為》《立海3連覇の為》《部の事を一番に想って》とされているから、その種の大義名分を挟んでいないぶん作中描写よりは正直かもしれない。歌詞のみ単体で見ると完全に一対一関係の話になっていて、第三者の存在や外的な動機は読み取れない。


なんかこう…非明示的・間接的な物言いって、「秘すれば花」と受け取れるものもある一方で「うるせえもっと正直に言え」と思ってしまうものもあり。どこに境界線があるんだろう。
この歌詞の表現は絶妙なラインで前者として受け取れるんだけど…

***

《絶望さえ 恐怖さえも 世界の終わりじゃない》
直感的な語用感覚なら、「恐怖さえ 絶望さえも」になる気がする。
恐怖より絶望のほうが深刻、あるいは恐怖の先に絶望がある、という漸層法的な感覚。

《恐怖》は反応的な感情であるのに対し、《絶望》は希望を完全に失った状態で、より究極的・終局的なニュアンスがある。そして修辞としては、列挙する感情が強度や深刻さを増していく配置のほうが自然。
《さえ》→《さえも》と強調も強まっているから、内容も《恐怖》→《絶望》と深まっていくほうが、形式と意味が呼応して収まりがよく、《世界の終わりじゃない》という結論に向けたクライマックスとして分かりやすそうに感じられる。

《絶望さえ 恐怖さえも》——この語順だと《恐怖》のほうがより重大な問題として読める。
勝てない絶望はずっと知っているけど、恐怖はこのとき初めて抱いた種類のものだったから…とか?

Google完全一致検索では:
 “恐怖も絶望も” 302件 / “絶望も恐怖も” 132件
 “恐怖や絶望も” 56件 / “絶望や恐怖も” 30件
 “恐怖や絶望さえ” 9件 / “絶望や恐怖さえ” 1件
数は少ないが、まあ有意な差といえるかな…

《風が吹き荒れ 時が動いた
 絶望の裏側に 夢の続きがある》

ここは恐怖ではなく絶望。

「for Yourself」でも、絶望→恐怖の順で呼応している。ただし、君→自分と主語を変えながら。
《絶望さえ 君は打ち砕いたのかい?
 恐怖を抱いた 自分にももう余裕はない》
《恐怖》が《君》から《自分》へと転移してきた、とも読める。

***

《友情あればこそ 今 本気で勝ちたい》
《神に捧げるのだ 全力を》

この二つが並立する関係は、異常。
どちらも本心に違いないだろうけど、どちらが本質かと考えるとどちらも違う感じがする。


● 117
「STRENGTH」の一問一答コーナーに載っている《(真田は幸村とは)幼少からライバルとして切磋琢磨していて、いつしか勝たない方が良いとさえ思い始め》た…って、本来は文章として不自然。
「ライバルとして切磋琢磨していて」から順接で続くなら、「常に負けたくないと意識してきた」や「彼に勝つことが原動力だった」といった、原文とは正反対の意味内容が自然。

「ライバル」も「切磋琢磨」も互いに競い合って高め合うことを意味するわけだから、「勝たない方が良い」という結論に至るのは論理的/心理的な飛躍がある。逆にいうと、勝たないほうがいいと思うならそれはもうライバル関係ではない。
おそらく不正確なのは結論ではなく前提のほうで、実情として妥当そうに思われる一つの例は「幼少からずっと勝てなくて、いつしか勝たない方が良いとさえ思い始めた」。
敗北の痛みから自分を守る操作。「勝てない」が「勝たない方が良い」に転化するのはいかにも子供の防衛機制的な心理で、切ない。

…勝てないのではなく、そもそも勝たないほうがいいのだ。何度挑んでも敵わないのは、(自分が弱いからではなく)相手が偉大すぎるからだ。こんなに偉大な相手は、忠誠を尽くすに値する……相手が主君で自分が家臣なら勝つ必要はない。勝てないから、従いたい。
これはある意味では自然な心理的適応。しかし問題(そしてこの種の話の醍醐味)は、こういう合理化によって無意識下に生まれた「勝てないから従いたい」が、実際の関係の心地よさの中でいつしか主客を転倒させて「従いたいから勝ちたくない」を生み、両者が相互に強化し合ってしまう可能性。その螺旋が回り続けて、もはやどちらが先だったかわからなくなってくる。


アニメ版の回想シーン(小5〜6くらい?):

《決めた。真田、この学校に入ろうよ。そして、僕と君とで天下を獲る》
《…ああ》

断られる可能性を想定してなさすぎるだろ。


● 113
非対称性の一面として…「黒色のオーラ」は直球激烈ラブソングだが、「for Yourself」はそうでない。
「おまえがいるから夢を思い出す」という告白に、「俺がいなくても夢を追え」という応答。

***

《You/We Go Further Away》《Let Me Set You Free》《Living for Yourself》の3フレーズと曲名の「for Yourself」だけ英語になっている。俺から離れて自由に先へ進んでくれ、というメッセージ。母語では言えない(言いにくい)理由がある?
とくに《Let Me Set You Free》は、1番と2番では日本語の位置に英語を入れている。母語だと生々しすぎるから?

***

《信頼も 葛藤も きっとお互い
 言葉にはしないけど 感じるよ》

葛藤はともかく信頼は言葉にしてもいいんじゃないかって思うが……それはさておき

《葛藤》って何と何の葛藤だろう。
相反する欲望と欲望の間で板挟みになるのが葛藤(conflict)。当然ながら二人とも「言えないほうの欲望」は明示していないから、明示されているほうの欲望から逆算して推測するしかない。

負けたくない vs 負けていたい
勝ちたい vs 勝たない方がいい
容赦しない vs 勝たせてあげたい
変わらなきゃいけない vs このままでいたい
自由にしてあげたい vs 縛られていてほしい
遠くへ進んでほしい vs そばにいてほしい
夢を見届けたい vs まだ夢を見ていたい
自分のために生きてほしい vs ……

《全力の 闘いの その果てでもがき輝く
 夢を見届けよう

 あの時 たった一度だけ
 頬に覚えた熱い痛み 生きている証》

…《遠慮とか容赦なんか》が本当に一切存在しなかった瞬間の象徴、として回想が置かれているように思う。君が俺に対してこれほど《全力》なのは《あの時》以来だな、という。


● 110
joysoundの歌詞ページでは《非情なる本気こそが》で載ってる…やっぱりこっちが正しい表記かな…?
他の歌詞サイトでは「非常」になってるけど…
CD買って歌詞カード確認しろよという話ではある(配信で買ってしまった)

Amazonにあった面白いレビュー(メモ)

***

下で「《Let Me Set You Free》というメッセージが伝わってるとは思えない」と書いたけど、これは修正が必要そうに思えてきた。
「メッセージが伝わった」ことの結果かどうかはわからないけど、set you freeの部分は二人とも共有している。でもlet meのニュアンスは伝わっていない……という読み。今のところは。

***

《友情あればこそ 今 本気で勝ちたい》
《限界を超えて なお挑み続ける/そんな友だからこそ 迷わない》

えっ君たちって「友達」だったの??? …という。
一種の異化効果というか、友情と名指すことによって逆説的にそうではないものの存在感が炙り出されてくる典型例。好き。


● 105
根本的には歌詞というより「原作のあの話をあのように解釈したアニメ版」の問題が大きい…
あとCDは2012年9月と2014年3月に出ているので、それ以降(13巻〜)の描写を思考の材料にしてもあまり意味ないかも。というメモ

***

《それでいい これからは自分の為に》の《それでいい》って、あの全国大会で真っ向勝負を捨てさせたシーンのモノローグに引っかけてるのか……ということにいまさら気づいた。見事な対照で美しい
同志討ち戦のアニメでのモノローグは《これでいい これからは君自身のために》で、多分わざわざ変えている。

こういうの、自分の中にもっと萌えがあれば即座に気づけただろうな…
愛は読解の必須条件ではないが、あると補助線を見つける感度が上がる。
自分は二人の関係性そのものを愛でているというより、その関係性が露呈させる欲望の構造のようなものに惹かれているので、愛とは結構違う。

***

改めてアニメ版を見てみて印象的だった、原作には無いモノローグ

《幸村、お前は…全国連覇という重圧を共に背負った、いわば同志》
《だからこそ、微塵の手加減も許されん》

手加減を「しない」ではなく、手加減が「許されない」と、外的な規範・義務感として表現している。自分の意志というよりも、「そうするのが道理」「そうしなければ裏切りになる」という覚悟や緊張感に裏打ちされている。
冒頭での《遠慮はせんぞ》の言い方も非常に複雑そうな声で、《せんぞ》の前に躊躇らしき一瞬の溜めがある。
歌詞では《本気で勝ちたい》と言っているけど、原作とアニメには「勝ちたい」という表現はない(アニメには「勝つ」はある)。

たぶん本人も意識の上では勝ちたいと思っているけど、無意識の中に「勝ってはいけない」という気持ちが深く根を張っていて、純粋な実力の高低以上にその自己抑圧こそが勝てない理由になっている(気迫で打球の方向すら変えてしまえるほどの男なのに)……と読むのが自分は腑に落ちる。
これは2021年のファンブック(STRENGTH)での《いつしか勝たない方が良いとさえ思い始め》た、という記述を読んだから思うことでもあるけど。
新10.5巻掲載の各能力のレーダーチャートでは二人とも合計は23で同値。残酷〜…

***

原作《…テニスを楽しもうと思ったけれど そんな余裕は無さそうだ》
アニメ《テニスを楽しみたいと思っていた… でも、そんな余裕は無さそうだ》

《楽しもう》は意思・決意、《楽しみたい》は願望・希望。前者の場合、楽しむことを話し手が積極的に望んでいるかどうかは判然としない。義務的な心理の可能性もある。
あとアニメ版では「思っていた」という継続的な表現によって、試合前からずっと抱いていた思いというニュアンスが加わっているように聞こえる。

そしてこのセリフから歌詞に落とし込まれているのは《もう余裕はない》だけで、「楽しもうと/楽しみたいと思った」要素は(少なくとも直接的には)書き込まれていない…あの話の中でかなり重要なピースだと思うんだけど。

《不意にボールが 額かすめて世界を切り裂いた
 底の知れない 何かが黒色のオーラを纏い覚醒する
 絶望さえ 君は打ち砕いたのかい?
 恐怖を抱いた 自分にももう余裕はない》

これだけだと、「楽しもうとした(けど叶わなかった)」という心情は伝わらない…これは惜しいかも…

***

話のタイトル。原作では「皇帝 VS 神の子」だけど、アニメでは「神の子 VS 皇帝」になってる。確かに後者のほうが自然には感じるけど…原作の語順って別に意図的なものではなかったのか?

いま唐突に思い出したけど、そういえば私この話が入ってる巻のDVD持ってた…
特典リーフレットに載ってる対談で永井さんが、「本当に感謝している」というセリフについて《モノローグじゃなくて、直接言ってあげればいいのに(笑)》と言ってて、ほんとそうだよな…と思いました

******

追記:絵的な面での疑問

前提として、原作でもアニメでも、イップスやそれに類する状態に陥った人に見えている(というか“見えていない”)景色は一貫して「真っ暗闇」で表現されていて、「暗く」なることがテキストでも明言されている。







しかし、この話で描写される超強烈な「己の弱い心が作り上げた“幸村の幻影たち”から『君には俺を倒せない』『俺と君の差は永遠に埋まらない』と重圧をかけられる精神世界」は「真っ白な空間」として描かれている。




(絵のインパクトがすごすぎてギャグのようでもあるけど、こんなに的確な心理描写もないだろうな……原作に忠実かどうかという点は今の自分にはまだ判断できませんが)

考えられる理由の一つは、このあと覚醒する「黒色のオーラ」との視覚的な対比。



これは確実にあるだろうけど、しかしそれだけとも思えない。「イップス=暗闇」という原作設定に明確に反しているので…(そして監督なのか脚本の人なのか演出の人なのかわからないけど、この話を作った人は絶対この二人にめちゃめちゃfetishisticな愛着を持っているとしか思えないので…)

「イップス=暗闇」のルールを正とした上で単純に考えるなら、これは直接的にイップスによって見えている世界ではない。イップス(生理的現象)と並行して別のレイヤーで起こっている何か(精神的現象)を表現している。それこそ「抑圧」のようなものだろうけど…もうちょっと考えて丁寧に言語化したいな。

ついでに言うと「真っ白な空間」って視覚的には、後に描かれる世界大会での回想シーンに近い。




射程が広がりすぎて思考が追いつかなくなってきた。結論が出ないまま終わりそう…
ていうかいわゆるparanoid readingに陥っているような気もする。


● 104
《楽しい時 苦しい時 いつだって君がいたから/今の俺があるさ》
正しく本心に違いないんだろうけど、他の曲での感情表現が迂遠すぎるせいで、こんなストレートかつ牧歌的に言い切られると逆になんか裏があるように聴こえてしまう。冗談だけど。
《終わらない未来への long good-bye》みたいな、読解を拒んでくる言い回しに慣れてしまった。

《You Go Further Away/俺たちに 遠慮とか容赦なんかは 必要ないだろ?》
このメッセージ自体よりも、本来いまさら言うまでもないはずのことをここでわざわざ言っている意味(メタメッセージ)のほうが重要そうに感じる(これは冗談でない)。
何らかの理由で遠慮や容赦が生じるかもしれないことを可能性として意識している物言い。これは原作のセリフを反映しているわけですが。

サビに入ると声にエフェクトがかかる。もっとしっかり声聴かせてよ〜って思うんだけど、あれがまた「一歩退(ひ)いてる」感に拍車をかける。いわずもがな「黒色のオーラ」の歌唱のド直球な音圧とは真逆。

***

《あの日があるから今があるといつか振り向くなら/それは今日さ》

《あの日があるから今がある》
ここまで聴いた時点では自然に、過去→現在という時間の流れで受け取る。「あの経験があったから今の自分がいる」という、シンプルな回想。(for Yourselfの《楽しい時〜》と同じ)

《といつか振り向くなら》
ここで突然、未来からの視線が導入される。《いつか振り向く》主体が現れて、一瞬前まで「現在」だと思っていた「今」が、実は「未来」だったとわかる。

《それは今日さ》
ここで「あの日」が「今日」に折り畳まれる。

過去を回想していたと思ったら未来から今を見ていたという構造…だけど、音として聴くときにここまで思考している時間的余裕はなく、ただ《今日》の力強さと、時制の揺らぎによる漠とした違和感が残る。…ような気がする。
一見すると《楽しい時〜》と対称になっているように感じるけど、微妙にズレてる。

***

《いつもおまえがいるから 夢を思い出す》

《思い出す》のは、夢が過去にあるから。今ここで新たに抱くのではなく、かつて存在して、一度失われた(あるいは忘れかけた)ものを取り戻す行為。

「おまえがいるから思い出す」のは、裏を返せば「おまえがいないと夢を忘れてしまう」ということ。相手が自分の夢の保管場所になっている。
自分の中にあるはずの夢なのに、相手がいないとアクセスできない。《おまえ》という存在を経由しないと、自分の夢が自分のものとして感じられない。自己の一部を他者に預けてしまっている(そこに《Let Me Set You Free》と返される!)

うーん……やっぱりこのフレーズ超大好き。キャラクターの背景にかかわらず、この短い文字表現だけでも相当にロマンティックなものを描き出していると思う(こういう関係をロマンティックと評すのは私の趣味だが)

3歳でも5歳でもなく4歳で知り合った設定になっているのが絶妙。3歳では出会いの記憶が残りにくく、5歳では社会化されすぎている。
4歳なら記憶は残るけど、自分と他者の区別がまだ完全ではない。「出会った」という意識はあるものの、それ以前の自分を思い出すのは難しい。「彼がいない自分」をほとんど知らないまま育ち、人格形成の柔らかい時期に繰り返し刻み込まれる「彼に敵わない」ことが自我の土台=自分が自分であるための条件そのものになってしまう。
…だからこそ《今 本気で勝ちたい》が重いんだけど、結果としては負けているのがなんとも。


● 103
for Yourself、永井さんの作詞と違ってストレートだから歌詞の意味は読み解きやすいけど、ジャケットをこの幸福そうな絵にした意図が謎。
単に誕生日リリースだったから………?
心象……??
かわいすぎてあらゆる疑問を放擲させる力はある。

四つ葉のクローバーには「think of me(私を想って)」や「be mine(私のものでいて)」といった花言葉があり、四つ葉の形が十字架に見立てられることから、宗教的な帰依の促しに由来するという説もあるらしい。
「let me set you free(俺に君を解放させてくれないか)」とベクトルが真逆で、もし意図的なら怖い。

歌詞の中で明示的な意味が取りにくいのは《そんな友だからこそ 迷わない》と《全力の 闘いの その果てでもがき輝く/夢を見届けよう》かな
何を迷わないのか、目的語が実は明示されていない気がする

この曲と「黒色のオーラ」の非対称性が現象として魅力的すぎる。原作を点検してちゃんとまとめてみたいな…


● 96
黒色のオーラ - 歌詞/歌ネット
for Yourself - 歌詞/歌ネット

やっぱり同じ試合でも見えてる世界がだいぶ違ってておもしろい。
《Let Me Set You Free》というメッセージが伝わってるとは思えない…というか本人は自分がfreeでなかったことを自覚していないか、仮に自覚していても否認しそう

《いつもおまえがいるから 夢を思い出す》に対して《全力の 闘いの その果てでもがき輝く/夢を見届けよう》と返ってきたらけっこう寂しいと思うんだけど、その寂しさが良い


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